方便を究竟と為す 弐

投稿日:2013年10月20日|カテゴリ:クリニックブログ, 方便を究竟と為す

(この文章は既に医師会報に投稿したものを、医師会事務局の許可を得て一部改変し掲載しています。)

 

前回の原稿を書いたばかりなのにまた書いたのといわれそうですが、大事な経文からの引用で重大な誤りをみつけましたので、ばちがあたるといけませんので急遽続きを書くことにしました。大日経の三句の法門として有名な「菩提心為因 大悲為根 方便為究竟」を引用しましたが、第一句の「菩提心」の「心」の字が抜けて「菩提為因」と書いてしまいました。お詫びとともに訂正させていただきます。何度も校正・修正の機会があったのに思い込みというのは怖いものだなあと改めて感じます。実はこれ以外にも印刷の段階で、三句の最後「方便為究竟」の「竟」を「境」にしてしまっていたのに気がつき、こちらは事務の松崎さんのご尽力でなんとかなりました。もしかするとこれらのミスは、フロイトがいうところの無意識がなせるものではないかという気がします。つまり、これを「境」(さかい)にゴチャゴチャ理屈をいわないで(あちこち真理を外側の世界に探してココロここにあらずにならないよう)、日々の仕事の中に安心を見いだせ。そうでなければ肝心の「心」がいつまでも抜けているぞとの弘法大師のお沙汰ではないのか?ということです。

 

しばらく仏教から関心が離れていたのですが、ある日本屋を冷やかしていたところ、横山紘一氏の『阿頼耶識の発見』という本がたまたま目にとまりました。ユングにいわせれば、これも共時的な出来事なのでしょうが、パラパラめくっていて、「一人一宇宙」という言葉に惹かれ購入して読んでみました。仏教の唯識思想を大変わかりやすく紹介しており、また、「菩薩として生きよう」という横山氏の世界観には大いに共感するものがありますが、その中で横山氏は、「最近では自分の死と他者の死はまったく次元が違うものであると考えるにいたった」ということを述べておられるので大いに驚きました。その理由をもっと詳しく知りたいと思い、何冊か氏の著書をよんでいるうちに、弘法大師のしかけた網にまたまたひっかかってしまったのです。唯識思想は弘法大師が十住心(簡単にいうと人間の意識の進化を10段階にわける思想で密教が最上位におかれたもの)の6段階目に大乗仏教の初歩レベルとして分類されていますから、「何だお前は。わしがとうの昔にもっと上があるといっているのにどこをうろついているか!」と叱られた気分です。結局はレベル10まで自分でいってみればわかるのであって、理屈をこねていてもだめだということでしょうか。勝手に在家の弟子?と思いこんでいる身としては、阿字観か月輪観でもやろうかと考えましたが、静かに座る時間はなかなか取れないのが実情です。絵を描くことは嫌いではないので、ならばあの世にいくまでにまわりの人々の幸せを願ってタンカ(チベットの仏画)を100枚書こう!と願を立てることにしました。さまざまな尊格のタンカを描くのも三密の修行にあたるし、趣味と実益をかねるし、いいじゃないかと勝手に考えますが、またどこかで痛い目にあいそうな気もします。なぜ仏画、それもチベットのタンカかということはまた稿を改めて書かせてもらおうと思います。

さて、開業して20年近くなると、いい加減同じような生活の繰り返しに少々くたびれてくるのではないでしょうか。地の果ての海辺の診療所は毎日毎日高齢者相手ですので、痛みなどが一旦改善してもまた農作業などで痛めて・・の繰り返しです。ときには消耗してゾンビと戦う映画の主人公になったような気分になり、きりがないなあと天をあおいで嘆息したくなります。なにか自分や職員のみんなをふるいたたせる社訓でも作ろうかと思っていた矢先でした。弘法大師の著作である「吽字義」を解説した本を読んでいたら表題の言葉がとびこんできました。ますます共時的といえそうですが。「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟と為す」というフレーズはどこかで聞いたような言葉だが、と考えていると、思い出したのが次のフレーズです。「時に癒し(いやし)、しばしば和らげ、いつもなぐさめる」でした。これは誰の言葉だっけーっということでインターネットで探すと、なんとヒポクラテスの言葉だそうで、この言葉をモットーに診療に励んでいらっしゃる先生もいらっしゃることもわかりました。遠い昔、母校の医学概論かなにかでこの言葉を聞いた気がします。このあとに「そのいつもできることを我々は一番やろうとしない」といった言葉が続いて、アメリカかどこかの国の医科大の入り口に掲げてあるということだったと思います。病気を治そうとか命を救いたい、病者の苦しみを取ってあげたいという情熱は医師なら誰もがもっているものでしょうが、人間はかならず老いていき、死亡率は100%なのだと忘れがちです。また自分が治していると錯覚しがちですが、人間に自己治癒力がなければ、風邪もなおらないし、縫った傷もくっつかないでしょう。オステオパシーなどのエネルギー医学に携わっていると、本当の意味で癒しがおこるのは治療者が、天というか自然というか神仏でもグレートスピリットでも大日如来でもアッラーでもいいのですが、大いなる生命と同調したときに起こるとされており、「時に」しかおこらないのです。次善として治療者のもつ健常なエネルギー「慈悲(のエネルギー)」が病者の弱ったエネルギーに反応して「しばしば和らげる」事に成功します。しかし最も我々が注意を払うべきは、多くの例で治癒を妨げているのは実は患者さん自身の思考や感情のエネルギーであるように思います。これは日常の診療でもよくみますが、家族との間に問題をかかえた糖尿病はどんどん悪化するし、事故の恐怖やうらみがこもったムチウチも治療の効果がでにくいと思います。またしても誰がいったか忘れましたが(シュバイツァーだったかパスツールだったか?)、医者ができる最も重要なことは患者さんの心の中に、永続して「自分は健康になる」という気持ちを持たせてあげることだと言います。すると、患者さんの心に働きかけることは誰でもできるわけで、医者だろうが、看護師だろうが、薬剤師だろうが事務員だろうが、トイレ掃除のおばさんだろうがです。だから「いつも」あらゆる手練手管(「方便」)を使って「なぐさめる」ことが最重要(「究竟」)でなければならないことになります。賢明な読者のみなさんは、私が我々が日常行っている医療に価値がないといっているのではないとお分かりだと思います。なぜなら患者さんを傷つけない限り、患者さんのことを思ってわれわれが行うすべてのことは「方便」であり「究竟」だと述べているのですから。

というわけで表題の「方便を究竟と為す」の意味を説明してきましたが、タンカのことをふれる時間がなくなってしまいました。次回のお楽しみということにしようと思いますが、絵がないとさびしいので一つのせてもらうことにしました。今回のタンカはクルックラーと呼ばれる女性の尊格を描いたもので、黒い紙に金、銀、赤だけで描いています。次回は同じ尊格ですが、色を用いて描いたタンカをご紹介しながらチベットの仏画(タンカ)にひかれてしまう理由について考えてみたいと思います。最後に次回の予告を兼ねて一言。

 

チベットのタンカとかけて

ももいろクローバーZととく

 

そのココロは・・・・

 

どちらもエネルギーの爆発だ!!

 

まだつづく

安藤五徹

 

 

追記(というかむしろこちらが重要?):

まだ書くのか!といわれそうですがもう少しお付き合いください。「ももクロ」の名前が出てしまったので(これも潜在意識のせい?)、「笑顔と歌声で世界を照らし出」すことを使命に「パフォーマンスに汗を流」しているイチオシアイドルグループの「大きなお友達」の一人として、自分のまわりで「泣いている人になにができるだろう?」と考えるとムラムラと菩提心が湧きあがり、ここで何か発言しておかねばと思いまして筆が滑り続けるわけです。

(「爆発」という言葉を使うとやはり私が敬愛する岡本太郎氏の有名な「芸術は爆発だ!」が思い出されます。岡本太郎氏のパリ留学中の盟友にジョルジュ・バタイユ氏がいますが、今の社会を変革するには「がん細胞のように痛みをともなわず人知れず深く影響を及ぼす」ことが必要だといったそうで、岡本氏も共感したのでしょう、その二人の思いの日本的結実が大阪万博の太陽の塔なのだそうです。確かに万博といえばあの太陽の塔が真っ先に思い出されるではありませんか。だからさしずめこの一連の駄文も岡本太郎&バタイユのあとを次いで・・・というのは不遜ですが、そのような役割があればと考えています。(これはつまり種明かしですね。)

やっと本題ですが、・・・・・・(ここは医師会関係の連絡事項なので省略)・・・・、担当理事としてこの場をかりて会員の皆さんにちょっとお伝えしておこうと思った次第です。

やっと終わり