方便を究竟と為す 番外編

方便を究竟と為す番外編

プロジェクトMCZ

(この文章は、平成27年春の茂原市長生郡医師会報に「方便を究竟と為す その弐拾壱」と同時に掲載されましたが、わかりにくい部分を一部改変してあります。)

 

 

(茂原市長生郡在宅医療(MCZ)担当理事として、「あーりんも今度は“おじいちゃんおばあちゃん祭り”をしたいと言っていたし、いつかこの茂原市長生郡で、ももクロが高齢者を励ますライブをしてくれないかなあ」と漠然とした夢を描いていました。今度KISSとももクロのコラボレーションの情報を追いかけていて、「これだ!」とひらめいたことものがあるので、忘れないうちに書いておこうと思い、まとめてみました。 内容的にもっと煮詰める必要はありましょうが、「鉄は熱いうちに打て」ということもあり、最近医師会報も薄い?ので、再び暴虎馮河のそしりを受けようとも、あえて蛮勇をふるい掲載することにしました。キーワードは“仮面”と“極楽門”です。)

 

自伝『モンスター〜仮面の告白〜』(シンコーミュージック・エンタテイメント)によれば、KISS創成からのメンバーでありフロントマンであるポール・スタンレーは、生まれつき右耳の小耳症と聴力がない状態で生まれた。そのことが心の傷となり、それを隠す手段として白塗りの顔に星形のマークをペイントした外観、“仮面”が生まれたのだという。“仮面”は自らを守る防御機能を果たしたが、最終的に彼が自分の苦しみから解放されるのも“仮面”がきっかけであった。

ミュージカル『オペラ座の怪人』の仮面の怪人ファントム役として出演する機会を得て、怪人ファントムの“仮面”をつけて演ずるうちに、自分の真の問題はその外観にあるのではなく、それを隠そうとする内面、魂にあることに気がつく。やがてこのミュージカル出演をきっかけとして、『他の子供と“異質”な顔を持つ子供たちを支援する団体“アバウトフェイス”』との関わりができることにもなるのだが、自分を救うものを外側に探すのではなく、自分の内面を見つめなおし、その価値を認め、尊重し愛することができてはじめて、自分自身を苦しみから解放することができたというのである。

KISSとしての彼は“仮面”をつけていることを意識していた。その“仮面”は彼に浮世を生きる力を授けた。しかし最終的な真実は、その醜い自分を隠す“仮面”の下、自らの心の中に隠されていることに気がつく。それにはファントムの“仮面”という別の”仮面”の力が必要だったのである。それにしても、“仮面”には不思議な力があるのではないか。

 

この“仮面”の持つ力、呪力というものに衝撃を受けたのが岡本太郎である。彼の著書『美の呪力』(新潮文庫)に収蔵の「仮面の戦慄」という一章では、次のように述べている。「面をかぶって、それ自体になりきってしまうということは正しくないのだ。・・・・明らかに自分の演じている人間と自分との距離を計りながら、その間に交流する異様な波動を身に感得しながら、遊ぶ。それ自体が本当に生きることであり、演技することである」と述べている。

20世紀の大聖ラマナ・マハルシは、真理を求めやってくる者たちに常にこう説いた。身体を真の自分と同一視して考えることがあなた方の一番の問題なのだ。あなた方の本質は不滅の意識、霊性なのであって、「私は誰か」ということを常に問いなさいと。

われわれは普段生きていくうえで様々な“仮面”を生きている。名前、出自、年齢、職業、財産などなど。そしていつのまにかそれとすっかり同一化してしまっている。岡本太郎の言葉で言い換えれば、「面をかぶって、それ自体になりきって」生きているが、それは「正しくない」のだ。むしろ自分が“仮面”をつけていること、それは自分の本質、真の自己ではないことに気づき、「自分の演じている人間」と真の自己との「距離を計り」ながら「遊ぶ」ことが「本当に生きること」なのだ。

 

翻って、いまの高齢者の置かれた状況を考えてみるとどうか。特別養護老人ホームやグループホームなどで高齢者はどのような状況かといえば、いろいろなレクリエーションはあるにしても、普段は安全のための着座を強いられ、うつろな目をして身じろぎもしない者が多いのではないか。(お断りしておくが、これは施設で働く方々を批判する文章ではない。それに関わる者の1人として、体制上やむを得ない面もあり、それを改善することの難しさは理解しているつもりである。そのうえで、どうすればこれらの高齢者にイノチ、生きる喜びを吹き込めるのかを考えているのである) かれらもまた、高齢者、要介護者、身体障害者、機能失調者、認知症患者といった“仮面”のもとに、残された生を送っているのではないか。例えば仮に脳の高次機能に衰えがあるにしても、それは身体的な問題であり、脳機能に関わることであって、その内奥にある“精神”にはイノチの輝きが隠れているに違いない。唯物論者にとっては受け入れがたい話かもしれないが、私はそうではないので論をさらに進めよう。

上記のポール・スタンレーや岡本太郎の話から導き出されることは、逆説的だが、“仮面”をつけることで内奥に隠れた自分の真実に目覚めることになる。言い換えればその隠れたエネルギーが、人工的で意識的な“仮面”をつけることにより励起されることで、今まで自分が同一化してきたより潜在的な“仮面”を打ち砕くのだ。その“仮面”の下にはさらに別の“仮面”があるかもしれないが、一度“仮面”の持つ力に気がつけば、普段自分がいかに“仮面”をつけて生きていたことに気がつきやすいわけで、一旦このような気づきの観点を持つことができれば、個人の意識状態に質的な変化が生ずるのである。

ではそのような効果が脳の高次機能の低下した高齢者でも可能であろうか。私は可能であろうと考える。むしろ実験しなければならない。ルドルフ・シュタイナーが障害者の瞳の中にこそ真の“魂の光”を見たように、脳という身体機能、思考の影響が緩んだ状態の高齢者は、もっと直裁にイノチのエネルギーに触れる可能性があるからである。

 

女性ならば化粧やおしゃれなどの“仮面”の力がいかに絶大なものであるかをご存知に違いない。私のロンドン大学留学時の恩師は女性だったが、朝研究室にやって来るときはスッピンで、どこの老婆かといった風情で消え入りそうな声で「グッドモ〜ニング・・・」と云ってやってくる。ところが、いざ教授室に入って化粧をし、アイシャドウをばっちり決めると、威勢良く部屋から飛び出し、ナチの女親衛隊長よろしくヒールの靴音高くやってきて、「Where is the paper?(論文書けたかー!?)」とシャウトするのであった。これに慣れるまでは悩んで寝込んでしまうことが何度かあった。さらには形成外科が患者の心理に及ぼす影響を見よ。もっとも、最近の韓国の美容形成事情を報じた番組などをみると、もとの顔とまったく違った顔にしてしまうなど、明らかに行き過ぎだと思わざるをえないが。

 

高齢者の意識の変革に“仮面”が影響することは良いとして、それとももクロやKISSがどう関連するのか? KISSのライブには顔にメンバー同様のペインティングを施したフアンが必ずいる。一方、ももクロのライブには、メンバーの過去のライブ衣装やミュージックビデオ中の衣装をまねて派手なコスプレをしてくるモノノフがわんさといるのだ。さらにももクロに関しては、フアンが身にまとう5色に分かれた法被類や、「モノノフ」という名称がすでに仮面的な役割を担い、日常性からの脱却の役割を果たす。これらはライブという祝祭的空間を彩る強力な“仮面”なのである。

結論をいえば、ももクロに“おじいちゃんおばあちゃん祭り”を開いてもらう。そのライブに参加する条件として、人工的な“仮面”をつけてもらうのだ。つまり簡単でよいので、顔のペインティングやコスプレを高齢者にしてもらうのだ。いくつかの推奨されるペインティングパターンを、KISSのそれを真似たりして、あらかじめ提示してもいいだろう。いつもと違う、化粧をした顔を見せ合うことで自然に笑顔もこぼれるのではないか。高齢者同士お互いにペイントしあうもよし、こんなペイントがいいと介護者に塗ってもらうもよし。コミュニケーションが計れない状態の人には、過去の好みなどから想像して塗ってあげるのだ。

このような“仮面”をつけることの効果は忘年会などでも実証済みだ。はじまりにあたって簡単な道具を身につけて仮装するだけで、笑顔をさそい場の空気をなごませるのである。だから高齢者にとっても同じ効果があるはずだ。そして、これらは笑いの治癒力や色彩治療、芸術治療、治療的タッチングの技法などにもつながることでもある。世話するお年寄りの笑顔を見ることは介護するものにとってもやりがいに結びつくであろう。

 

では実際のライブはどのように行うのが良いのだろうか。体の弱い高齢者をライブ会場に集めて万が一事故があったらどうするのか。まあ主催は医師会だとすれば、緊急時の対応は万全を期すとしても、実際に会場に集まる方には健康上の制限があろう。さらにはそもそも茂原市長生郡に、ももクロのライブができる広い会場なんてあるのか? せいぜい収容者数が最大で1000人レベル止まりか。

大丈夫。ここで「チームももクロ」が得意とする「ユーストリーム」システムの登場となる。それを生かせば、ライブ会場の規模が小さくてもOKだ。多くの高齢者は、このシステムを利用できれば施設や自宅にいながらでもライブを楽しめるのであり、その安全を計れることになる。会場にいなくても、その会場の熱気が伝われば良い。いままでもももクロのライブは、会場に入れない人のために映画館を利用したライブ・ビューイングを同時に行っている。私も何度か利用しているが、そこがライブ会場でなかろうと、皆さん大声を出してコールしているので、ユーストリームの画像前でも同じことは起こるだろう。ヤングやミドルのモノノフにも積極的に参加してもらい、ぜひ場を盛り上げてもらうのが良いし、メンバーから声がかかれば、彼らは喜んでそうするはずだ。むしろユーストリームで発信することが、この祭りの規模を大きくすることになるのである。

さらにユーストリームであれば世界同時発信だって可能だろう。もちろんももクロも世界中にフアンはいるが、活動歴40年のKISSの発信力にはまだ及ばないだろうから、KISSとのコラボの一環で連携がかなえば、世界同時の高齢者ライブも夢ではないだろう。毎年恒例のライブにできればなお良い。KISSのメンバーもかなりの高齢だから、高齢者への応援活動には快く乗ってくれるのではないか。忙しいならメッセージでの参加だけでもいいだろう。

 

この“おじいチャンおばあちゃん祭り”は年々場所を変えて行っても良い。日本全国を制覇したら、アメリカ、つぎは他の国へと所を変えてもいい。世界に笑顔を届けるというももクロのポリシーにマッチするだろう。だが、最初の一歩はぜひ茂原市長生郡医師会から始めてみたい。なぜか?

ここで小咄をひとつ。「茂原市長生郡の在宅医療とかけて ももいろクローバーZと解く。そのこころは? どちらもイニシャルがMCZ!」 お後がよろしいようで・・・。というシンクロもあり、他人とは思えない?ということもあるのだが、そのヒントは“極楽門”である。まだ新曲のCDとビデオが発売前なので、正確なことは言えないが、現在の情報では、ももクロvs KISS のコラボ新曲『夢の浮世に咲いてみな』のミュージックビデオの出だしは、アニメで“極楽門”という門が登場する。この門を通って、ももクロたちは色の無い世界を絢爛豪華に塗りたくるために飛び出していくのである。つまり、ももクロvs KISS のコラボの世界観の始まりは“極楽門”なのだ。

“極楽門”とは東京のよみうりランドにかつて存在した野外音楽会場の入り口として立っていた門である。それまでの“ももいろクローバー”が“ももいろクローバーZ”に改名後、始めて彼女たちがその会場で行ったライブが、題して『極楽門からこんにちは』である。ライブの冒頭で、メンバーは戦隊モノのコスチュームに身を包み、この“極楽門”から華々しく登場したのだ。

このライブは、いまでも伝説的なライブとしてフアンの間では人気ランキングで上位にあり、この後彼女たちはアイドルとしてメジャーになっていくのだが、このライブの始まりに会場で流されたビデオは、なんと茂原市長生郡の一翼をになう白子町にある撮影施設で作成されているのだ。(注:お墨付きはもらえていませんが、ほぼ間違いないと考えています) それが明らかになったのは、そのビデオのメイキング映像(『ももクロchan』で放映)の中に、背景にある周囲の環境や建造物、特にリゾートマンション郡が映し出されており、そのうちのひとつの最上階の独特の形状は、まぎれもなく私がターミナルのがん患者さんを往診で看取ったところに相違ないのである。その最上階にいた人物は、末期の胆管癌で全身黄疸になり、私の入院してくれとの勧めに対して織田信長の“死のうは一定”ばりに、「先生、入院したってなおらねえよ。人間一度死ねばいいんだろう。だったら病院なんか行かないよ」といって、とうとう在宅で看取らせていただいたので忘れもしない方なのである。つまり茂原市長生郡、在宅医療、ももクロ、 そしてKISSはこの、“極楽門”で見事に繋がるのだ。

 

ももいろクローバーZ(MCZ)の“おじいちゃんおばあちゃん祭り”が、“極楽門”で繋がった茂原市長生郡の在宅医療(MCZ)から世界へ発信される。考えただけで武者ぶるいしそうだ。彼女たちの力を借りて“色を失った世界(2025年に向けた高齢者社会と在宅医療)を5色で絢爛豪華に塗りたくり、元気を取り戻して夢の浮世にイノチの華を咲かせるのである。これをプロジェクトMCZと命名する所以である。

 

 祭りにおいてこそ絶対と合一する。

言いかえれば己をとりもどすのだ。

(岡本太郎 『アマゾンの侍たちX岡本太郎』Publishing Office Wonder Art Production)

 

 

 

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方便を究竟と為す その弐拾壱

方便を究竟と為す

その弐拾壱

(この文章は平成27年春の茂原市長生郡医師会報に投稿されたものです。時間が前後しますが、「その弐拾参」の親子大会の話や「その弐拾五」の話題とも関連するので、今回同時に掲載することとしました)

 

 

『夢の浮世に咲いてみな』

(ももいろクローバーZ vs KISSのコラボ新曲題名)

 

 

原稿を書くのは大変なので、もう書くのをやめようかと思っていましたが、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ!)がヒッラの岩窟で大天使にクルアーン(コーラン)を「詠め!」と詰め寄られたごとく、何者か(医師会長?事務長?まさか!いやいやもっと大きな力だ・・・)が「書け!」と言っているような気がして胸が苦しいので、また思いつくままくだらないことを書いてみました。どうぞお暇でしたらお付き合いください。

 

 

「良き武将は戦場で死ぬものだ・・・」

(NHK大河ドラマ『武田信玄』 原美濃守の言葉より)

 

この年末・年始はインフルエンザや感染性胃腸炎などが猛威をふるったので皆さん大変な思いをされたことと思うのですが、当院のような地の果ての診療所も大混乱の極みでした。最後の最後で小生も熱発してしまい、正月休みで滑り込みセーフでしたが、危ないところでした。あげくの果てには年明けてから仕出し弁当が原因の食中毒に職員が巻き込まれ、病み上がりの私と新人事務員1人、古参看護師1人でウンカのごとく押し寄せる患者の大群に立ち向かうこととなりました。要するに映画『北京の55日』みたいな有様で、なんでこんなに働かんといかんのか!と腹が立つやらむなしいやらを通り越して、笑っちゃいますねと職員と冗談半分で話しました。ここまでくると、“ランナーズハイ”でなく、“ワーカーズハイ”ってやつです。

上の言葉は放送当時の台詞どおりでは無いかもしれませんが、武田の猛将“原虎胤”役の宍戸錠さんがドラマの中で語ったことばです。板垣や甘利という歴戦の名将たちには華々しい討ち死にの名誉があったのに、自分は死に遅れて老いさらばえて果てることになりかねないことを嘆いているわけです。昔の武士は老いて寝たきりになり、人に下の世話をしてもらいながら死ぬというのは望まなかったのかもしれません。

昨年、これからは「在宅医療・介護戦国時代」だと書きましたが、過労死する開業医が増えるのではと懸念される一方、自分たちの将来を考えると、ぼけて寝たきりになり厄介者になって死にたくはない。それなら武将にとっての戦場での討ち死にならぬ、職場での過労死も美しい死に様かという気がしなくもない。現実にはコロリと逝かないことが多く、救命されて寝たきりなんてことになりかねませんので楽観はできませんが、そう考えて肚を据えれば気が楽になるし、あれやってくれこれやってくれと言われても腹が立たんし、心にゆとりができて笑って生きられそうです。

 

 

時は戦国   嵐の時代

でっかい心で 生きようぜ

(「少年忍者風のフジ丸」主題歌より)

 

そうと決まれば、勇気を奮い立たせるテーマ曲が欲しい。パッと浮かんだのがこの歌、懐かしいTVアニメの登場です。歌詞もドンピシャ。時は在宅「戦国時代」(在宅医療・介護戦国時代は長くて舌を噛むので短縮)、気象は急変、人心もすさみ、疫病が流行する「嵐の時代」、「でっかい心」、大きな心で生きなければやっていかれない。大きな心とは? 弘法大師の『十住心論』にいわく、生きどおしの大日如来の心だ! 明け渡しだよ、明け渡し! その「大きな心」にすべて明け渡して恐れず生きるのだ!! バカボンのパパの「これでいいのだ!」の精神でいこうなのだ。どうもまだ熱病が完治せず、朦朧としているようなので、意味不明の話はご容赦願いたいなのだ。

 

 

死のうは一定 しのび草には何をしよぞ 一定かたりをこすのよ

(織田信長が愛唱した小唄)

 

「戦国時代」だからたくさん悲惨なことも起こるのでしょう。下克上だからオカミの思い通りには動かなくなっていくでしょうし、2025年に向けて人はたくさん死んでいくのでしょう。しかし戦国から安土桃山の文化を知れば、人々は悲惨な時代を、明日をも知れぬ時代それ故に、逆に命を燃焼して激しく彩り豊かに生きたことがわかります。甲冑や陣羽織の鮮やかさひとつみてもそれはうなずけるでしょう。この小唄の意味は「人は必ず死ぬものだが、後の世にも語り継がれるようにするにはどう生きようか、それが自分の生の証として人々の語り草となろうから」というようなことらしいですが、信長の覚悟が現れていて面白いです。

 

 

色の無いこの世界  塗り替えろド派手に

絢爛豪華誰だって  一生夢見人さ

その人生を    彩るのは愛と夢だけなんだ

君という錦の華  咲かせましょう

(ももいろクローバーZ vs KISS 『夢の浮き世に咲いてみな』より)

 

最近病院にはいられないし、そもそも入院して延命治療はごめんだし、医者の世話にはなるべくなりたくないし、施設もきらいだし、介護者もいないけれど・・・家で死にたいから何とかしろという困ったお年寄りが増えてきました。かと思うと、いつまでも元気で、かえって息子や嫁の方が先に逝ってしまい途方にくれる要介護老人もいます。こういう実際に体の弱った、本当に具合が“ワルい”お年寄りがいる一方で、ヤングやミドル顔負けに行楽地やゴルフ場を闊歩し、いつになったら耄碌するのだとヤングやミドルに眉をしかめられるような元気印のお年寄りも目立ちます。こういうお年寄りは、今後は“ちょいワル老人”と呼ぼうと思います。

上の歌詞は、今度ももいろクローバーZとロックグループのKISSがコラボで発表した新曲からです。KISS側が作曲し、ももクロ側が詞をつけています。昨年末にはNHKが1時間の特番を組んでコラボの様子を放送しましたが(サイコーデシタ!)、その中で作詞した岩里祐穂さんが、「KISSもももクロというグループもみんななんかこう、恐れずに枠を壊してきたグループだと私は思っていて、『まず怖がらないで、恐れずに生きろ』ってメッセージを入れたんだと思っています」と話していました。

地域包括ケアだの多職種連携だの言葉でいくら飾っても将来がバラ色に変わるわけでもなし、この灰色の時代を「ド派手に」、彩り豊かに「塗り替え」て、「絢爛豪華」な「華」を「咲かせ」て生きる責務は、他人ではなく個々人が自ら負っていると考えて生きる必要があろうし、そのほうが愉快というものでしょう。シニアは頑張ってあとから来るミドルやヤングの手本にならないといけない。頑張れシニア! 日本の平和を守るのだ!

そういえば2013年1月にNHKがTV『おはよう日本』で、紅白初出場を果たしたももクロに新春インタビューを行った際、ピンク色担当の“あーりん”こと佐々木彩香さんが、「今度は“おじいちゃんおばあちゃん祭り”をやってみたい。みんなでお手玉とかするの」と話していたのを思い出しました。シニア大会、いいねえ。茂原市長生郡在宅医療がらみで何とかできないものか。何たって“どちらもイニシャルMCZ”ですからね。

しかしだね、あーりん! いまどきお手玉して遊ぶそんな古典的でカワイイお年寄りが存在していると思うかい? 仮にいたとしても絶滅危惧種に間違いなしだ! いま巷にあふれているのは、芝生の上で細い棒切れをブンブン振り回して小さな玉を誰が一番遠くまで飛ばせるかで争ったり、カラオケで歌いすぎてのどをつぶしてみたり、車をぶっ飛ばして田んぼに落っこちてみたり、バスで押しかけては宴会して騒ぐような、“ちょいワル老人”ばかりなんだよ。しかしこうして書いてみると、本当に励まされなければいけないのは、こんな“ちょいワル老人”を支えていかなければいけないミドルやヤングのほうかもしれない。トホホホ・・・。

まあ冗談はさておき、あーりんにお願いしてお年寄りを鼓舞するためのイベントをやってもらうとすれば、さしずめ火野正平さんをゲストに迎え、『〜在宅戦国時代を生きる〜 人生下り坂最高! “ちょいワル”老人万歳!! 夢の浮世に最期のひと花咲かせよう会』と銘打ったアゲアゲのライブを行うことになるでしょう。その際は、このKISSとももクロのコラボ新曲がテーマ曲にはドンピシャだと思いますよ。ええ、本当に。

安藤五徹

 

追記1:書き終えてから気がついたのですが、KISSのグループ最年長ジーン・シモンズさんは当年とって65歳だそうで、立派な“おじいちゃん”です。TVで“ゴジラ”と言ったときの彼の日本語の発音がうまいのには驚きましたが・・・。嗚呼、それにしてもさすがはももクロ! あーりんが言っていた“おじいちゃんおばあちゃん祭り”とは高齢者ロックグループKISSとのコラボのことだったのか。しかしKISSのおじいちゃんたちとロックで荒ぶるももクロはかっこいいなー。(ジーン・シモンズ風に)アナタガタハ、サイコーデス!

 

追記2:番組の中でジーンと並んでKISS結成からのメンバーであるポール・スタンレーは、ももいろクローバーZのことを“モモイロクローバー・ジー”と呼んでいました。アメリカではこういう場合Zをジーと読むのかもしれませんが、なんだか“ももいろクローバー爺(じい)”に聞こえてきました。まるでポールが自分をモノノフの爺さんと呼んでいるようで(1952年1月20日生まれだからポールも今年で63歳?)おかしかったのですが、さしずめシニア夫婦のモノノフを表現すると“ももいろクロー婆(ばあ)爺(じい)”となるでしょうか。これは使えるかもしれん。

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方便を究竟と為す その弐拾五

方便を究竟と為す

その弐拾五

(この文章は茂原市長生郡医師会報 平成28年8月号に投稿されたものです)

 

—人間はすべてその姿のままで宇宙にみち、無邪気に輝いているものなのだ。<<太陽の塔>>が両手をひろげて、無邪気に突っ立っている姿は、その象徴のつもりである

岡本太郎

 

永遠だったはずの 未来でさえも

コワレモノと知って

人は戦士に 生まれ変わる

まずは胸に咲いた 小さな夢を

守るんだね

闇に 潰されないように

守れるかな?

迷うことも任務さTEAM 『Z』

(ももいろクローバーZ 「『Z』の誓い」より。 以下太字の部分は、いずれも同曲歌詞からの抜粋)

この歌は、アニメ映画『ドラゴンボールZ 復活の「F」』の主題歌として作られたものですが、まるで在宅医療や介護に働く者たちのための“応援歌”なのではないかという気がします。聴くたびに勇気をもらいますが、何度も聴いているうちに、とりとめもなく頭に浮かんできたことがありましたのでまとめてみました。

我々の社会の在宅医療・介護(以下ザイタク)の需要は、団塊の世代が75歳以上となる平成37年(2025年)に向けて急増し、平成47年(2035年)頃そのピークを迎えると予想されています。ピーク時には当地区で今の1.6倍、千葉や東葛地区では約2倍に膨れ上がることも云われています。今“何とかやれている”としても未来に希望はあるのかどうか、誰もわからないというのが実情です。

まさしく永遠だったはずの未来コワレモノの可能性があります。そのことを知った今、だからわれわれは戦士に生まれ変わるのだと云うのです。

かつて人類が“進歩と調和”の道を永遠に進んでいくと、他愛もなく信じられていた時代がありました。“大阪万国博覧会”の時代です。ところが、イノチのない科学工業力のみの“進歩”や、管理化された社会が示すようなイノチが通わぬ “調和”に対して、強烈な“ノン(フランス語の「ノー」)”を突きつけたのが岡本太郎です。

「人生・即・迷宮」と語る岡本太郎にとって、世界はコワレモノであることが当たり前で、常に「矛盾・対立」に満ちているものでした。そのことを踏まえた上で彼が求めたものは、「激しい対立の上に火花を散らし」「矛盾を内にはらみながら、それを跳躍台として飛躍してゆくダイナミックな進歩であり、調和」なのでした。

彼は、近代的な建造物がひしめく万博会場に、巨大な古代の“埴輪のお化け”のような“ベラボウ”なものを作ってしまいます。万博のテーマとは真逆のものを、しかも多額の国費を使って! それこそが、“太陽の塔”でした。

“太陽の塔”の意味については諸説あるようですが、最近では岡本太郎はミルチャ・エリアーデのシャーアニズム関連の著作を熱心に読んでいたことがわかっており、“太陽の塔”をシャーマニズムの視点からとらえる研究もあります。それによれば “太陽の塔”はシャーマンが天上、地上、地下の三界を自由に行き交うための宇宙の中心軸、「生命の樹」であり、その複製としての「シャーマンの木」であること。そして「天空上昇したシャーマンが「天空神」ないし「太陽神」と一体となった様子を大阪万博のテーマ・パビリオンとして制作し、<<太陽の塔>>と命名したと理解されるのである」というのです。つまり“太陽の塔”は大阪万博に降臨した“太陽神”だったのです。

“太陽の塔”は、万博記念公園で永久保存されることになりました。他の建造物がすべて移転や撤去されてしまった中で、この塔だけが時の試練に耐えて当時のまま天に向かって屹立しているように、その姿は今でもそれを見た人々の中に生き続けています。そして我々がその姿を思い浮かべるたびに、岡本太郎が“太陽の塔”を通して将来の日本に託した、“イノチのエネルギー”あるいは“生きる力”を、無意識のうちに受け取っているに違いないと思います。

 

 

なぜ諦めてたんだろ?

何もできるわけがないと

信じ込んでいたよ 絶望のプロパガンダ

 

身近の者から聞いたのですが、かつては自分の子供たちがうれしそうに未来の夢を語っていたのに、最近では将来どういう職につきたいということすらも、あまり語らなくなったというのです。何もできるわけがないと云うのが、今の時代、子供から大人、高齢者に至まで、我々の全てを支配するムード、頭に染み付いた絶望のプロパガンダなのかもしれません。

すぐ目の前にザイタクの需要が“2倍、2倍”の明日が待っています。もし大人たちが諦めているなら、子供たちには希望はありません。真っ先に我々がやるべきことは、この頭の中にいつの間にか染み付いて、我々の行動のエネルギーをブロックしている絶望のプロパガンダを、きれいサッパリと取り除くことでしょう。人の“ココロ”は自分の力で変えられるはずですし、逆にその人自身にしか変えることはできないからです。

では一人一人がココロを奮い立たせて戦士に生まれ変わることを、そして信じ込んでいる絶望のプロパガンダを抜き去るための戦いを、我々が応援する方法はあるのでしょうか。

 

 

始まりの歌が響く

『Z』の旗が翻る

さあ行こう 仲間たちが待ってる明日へ

 

黒沢明監督の映画「七人の侍」のワンシーンで、侍の一人である平八(千秋 実)が、農民との連合を示すを作りながら語ります。「戦の時にはな、何かこう高〜く翻るものがないと寂しい」と。

平八は野武士との本格的な戦いが始まる前に、一人の農民を守ろうとして真っ先に敵の銃弾に倒れてしまいます。しかし、彼の作ったは、その後雨の日も風の日も、まるで農民や仲間だった侍たちと苦楽をともにするかのごとく、農家の屋根の上でシンボリックに翻り続けるのです。

ことを決意した者たちにとって、旗は大きな意味を持つでしょう。そういえば、かつて日本の将来が危機にさらされ、この戦に負ければ後がないと云われた時に、波高き海で戦艦三笠に翻ったがありました。その名も“Z旗”です。うっかりしていれば我々にも後はなくなります。そのためには一人一人が奮励努力しなければなりません。我々もを掲げてはどうでしょうか。ザイタクで戦う戦士たちのための新しい“Z旗”です。

 

 

まずは胸に咲いた 小さな夢を

守るんだね それが・・・

『Z』という 誓い・・・

 

今の3Kの介護の現場を支えているのは、若い方たちを中心とした力です。その努力には頭が下がる思いがしますが、特別養護老人ホームでの回診時に彼らと話をすると、仕事は大変だし給料も十分とはいえないが、“やりがい”はあるといいます。あるいは「お年寄りが好きなので苦にならない」という人も結構います。そんな人はきっと、自分の祖父母との間に良い思い出を一杯持っている人なのでしょう。このような若い方たちの胸に咲いた小さな夢、あるいは希望の光を闇に潰されないように守らねばなりません。若者たちが活力を失えば、本当に未来に希望は無くなります。

“ももいろクローバーZ(略してMCZ)”のリーダー、百田夏菜子さん(かな⤵こ〜⤴)は世界を笑顔にしようとの大望(これを“笑顔の天下”とか“笑顔の天下統一”と呼んでいます)のもと、大忙しです。彼女はいつも笑顔で輝いて入るせいか、あるいはオデコが広くて反射光がまぶしい?ためでしょうか、フアンの間では「アマテラスオオミカミ」「大日如来」「太陽の化身」あるいは「太陽神」などと呼ばれています。“太陽の塔”は万博会場に降臨した“太陽神”でした。だから岡本太郎が“太陽の塔”でやったことを、生ける“太陽神”、百田夏菜子さんの存在とそのエネルギーでやれないかと思うのです。

ザイタクで汗をかいている若者たちと同世代である彼女が目指す “笑顔の天下”、それは必然的に、ザイタクの需要が2倍に膨れ上がっている超高齢化社会の世界で実現されなければならないことになります。だから“笑顔の天下”への道程には、ザイタクで働く今の若者たちの活力をいかに維持し増やしていくか、言い換えればその “笑顔”を増やしていくかと云う点で、我々と同じ課題を抱えていると云えます。

そこで、同じMCZのイニシャルを持つ者同士として、“ももクロ”と我々“茂原市長生郡のザイタクチーム”が一心同体の“姉妹チーム“として繋がることができればどうでしょうか。それを今をときめくトップ・アイドル一人である百田夏菜子さんから公認してもらえると面白いし、フアンでなくともエネルギーが湧いてくるのではないでしょうか。

さらに、同じ志をシンボライズしたを作って『Z』の旗と呼ぶことにします。(この『Z』の旗『Z』は、ザイタクの頭文字のイニシャルであるZと、ももいろクローバーZの両方にかけています)そして、かつて“太陽の塔”が万国博覧会という“祭典”の中に姿を現したごとく、そののもと実際にこの茂原市長生郡に“太陽神”その人に降臨してもらい、皆で“祭り”を開くのです。“祭り”は“祈り”の場でもあります。その場で“笑顔の天下”に向けた彼女の志、、希望と、ザイタクで働く若者たちのそれらを同じに込めるのです。

我々には岡本太郎が残してくれた“太陽の塔”のような、物理的に“ベラボウ”なものを作ることはできません。しかし、『Z』の旗を創り、その小さなレプリカを作って一人一人に手渡すことがならば十分できるでしょう。そのことによって、若い人たちのの中に、ザイタクで働く“希望”と“矜持”を示す旗が翻るようにしたいと思います。

この『Z』の旗はたとえ小さくとも、 ザイタクで働く多くの人々の熱意はもとより、“笑顔の天下統一”を目指す百田リーダーと“ももクロ”、 さらには、“モノノフ”と呼ばれる頭のネジがはずれた大家臣団?から発する巨大なエネルギーという “ベラボウ”なものも込められることにもなるのです。

そのを我々が手にし、 “笑顔の天下”を作らんとするエネルギーの力といっしょになって、自分もザイタクの未来を担ってがんばるぞ!という“誓い”をすることを『Z』の誓いと呼べないだろうか、そしてその“誓い”で結びついた仲間たち、形なき共同体を、TEAM 『Z』と呼べないだろうかと思うのです。

 

注)

1 『万国博に賭けたもの』 岡本太郎(「岡本太郎と太陽の塔」

小学館)

2 同上

3 『岡本太郎のシャーマニズム – ミルチャ・エリアーデの影響』

佐々木秀憲 (「岡本太郎のシャーマニズム」展 川崎市岡本太郎美術館)

4 何度も書きますが、“ももいろクローバーZ”と“茂原市長生郡(医

師会)のザイタク”はいずれもイニシャルが同じMCZです。

Momoiro Clover Z

Mobara-si Chousei-gun no Zaitaku

我々は”ももクロ”と”シンクロ”しているのです。

安藤五徹

 

追記)お約束の“吽字の秘密”はまた別に書かせていただきます。どうかアシカラズ。


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方便を究竟と為す その弐拾四

方便を究竟と為す

その弐拾四

 

 

とろとろに溶けてしまいそう   こころがすべてになっていく

・・・・・・・・・・・

ねえぼくらはひとりきりだけど  ひかりが呼んでいる

ももいろクローバーZ 「Happy Re:BIRTHDAY」より

 

 

平成28年2月20日のナゴヤドームを皮切りに、ももいろクローバーZ(略してMCZ)の5大ドームツアーが幕を開けました。全部で35万人も本当に集められるのか、“紅白”落選のあとでガラガラだったらどーすんだ!という訳で、御主君である姫様方が心配でいても立ってもいられず、またしても名古屋まで押っ取り刀で出かけてきました。ところが豈図らんや! ドームはモノノフだらけ、ライブの内容は驚天動地、その報告はあらためて書かせていただくとして、それに合わせてリリースされた2枚のアルバム、これがまたすごい内容で絶対買って間違いなし。「それを聴いて泣かぬものは“モノノフ”ではない」を超えて「医療関係者ではない」くらいの出来なのです。特に3rdアルバムである『AMARANTHUS』は、在宅医療・介護保険の関係者は必聴のシロモノといってよいのです。なぜならば、そのテーマはなんと人間の“死生観”、“生きて見る夢”だというのですから。「おぎゃー」と生まれて、泣いたり笑ったり、喧嘩したり仲直りしたり、恋したり結婚したり、社会に出て戦って、競争して挫折したり、やがて死んで、さらには死後の世界を経てまた転生しようか、というまでを一枚のアルバムで表現しているのですから!“

 

 

いったいれっきとした茂原市長生郡医師会在宅医療・介護保険(あいかわらず長ったらしいですが略してこれもMCZ!)担当理事の先生だって、「在宅医療問題は人間の死生観が問われているのです」とかなんとか云いながら、そんなこと医師会でまじめに議論なんかしやしないのに、アイドルがそんなテーマでアルバム作っちゃっていいのか〜!?(もちろん結構です!!)という訳なのです。

例えば3rdアルバムにある「バイバイでさよなら」という歌は驚きです。「死を迎えることになったある一人の女の子の姿を描いており(作詞した只野菜摘氏談)」、そこに描かれるショック、恐れ、抵抗、悲嘆、受容の過程はまるでキューブラー・ロス氏の「死ぬ瞬間」です。やがて白い光に迎えられ新しい世界へ旅立つ時に、残される人々へ贈る感謝、別れ、そして再会への期待の気持ちは、様々な臨死体験の記録や「チベット死者の書」を彷彿とさせるのです。そんな内容なのに、御主君の姫様方の手にかかると不思議に暗くならず、最後は何か希望すら感じさせる作品になってしまうのです。まさに「ももクロ恐るべし、アイドル恐るべし」と云わざるを得ません。

また、冒頭に挙げた「Happy Re:BIRTHDAY」という歌は、どうやら死後の世界で魂が再生を待つ状態を表現しているようなのですが、その歌詞にも思わずうなってしまいました。「こころがすべてになっていく」は“一切唯心造”ということでしょうし、「ぼくら」という一人称複数なのに「ひとりきり」というのは、“一即多、多即一”の世界を表現しているようです。どちらも『華厳経』の世界、ひいては真言密教・・の世界・・・といってよいでしょう・・・? ハッ! そういえば大事な宿題があったのを思い出しました!!

 

 

いったい弘法大師は夢の中で何とおっしゃったのか? 結論からいうと、その中に仏法の全てが包含されているという“吽字”という梵字、その一字の中に、ナント!“MCZ”という言葉が隠されているというのです。

「一切の世界は、一つの陀羅尼中に、あるいは一つの梵字に集約される」「一字の中に全世界、全存在、全真理が具現している」と梅原 猛氏は著書『空海の思想について』で密教の神秘について書いています。分かりやすい例をひとつ挙げてみましょう。この一連のコラムの標題は「方便を究竟と為す」です。これは弘法大師が大切にした『大日経』というお経の中の、有名な“三句の法門”からきています。弘法大師は「あらゆる仏教の教えはこの“三句の教え”に尽くされてしまう」といいます。すなわち三句とは、「菩提心を因(原因)と為し」「大悲(大いなる慈悲)を根(根本)と為し」「方便を究竟と為す」の3つです。この三句のすべてが吽字の中には含まれているというのです。

どういうことなのでしょうか。弘法大師によれば吽”うん”(hum)字を分解すると、さらに阿”あ “(a)字、訶”か”( ha)字、 “う”( u)字、”ま”( ma)字の4つの文字に分かれるのだそうですが、このうちの阿字は根源的な文字としてすべての他の文字の中に存在しているので省くとして、吽字は残る3文字からできていると考えます。そして、中心部を占める訶字は「あらゆる如来のさとりを求める心が原因であること」を、下部にある”うu”字は「大いなる慈悲に基づいたすべての行の意味」を、上部にある”点”は”まma” 字から来ており、「究極的かつ完全な悟りという果報」をそれぞれ表しているのだそうです。だから三句はすべて吽字一字に含まれるという訳なのです。難しいですね。

では一体全体“MCZ”はどこにあるというのでしょうか。“M”が”ま”(ma)字のmから来ていることは間違いないとして、では“C”と“Z”はどこにあるのでしょうか。ヒントとして実際の“吽字”の図を載せておきますのでご自身で考えてみてください。意外と簡単ですね。では続きは次回に。MCZ担当理事も瞠目の秘密がいよいよ明かされる! 驚天動地のドームツアー現場報告を含め、乞うご期待の程。

 

報告が多くて長文疲れるので次回に続く

(この文章は平成28年春に医師会雑誌に投稿されました。”う”字と”ま”字の漢字が出てきませんので省略してあります。また、投稿紙面では吽字を分解した図を掲載してあっりますが、ここでは省略されています。)

 

 

 

 

 

追記:

名古屋ドームでの観戦中、前の座席には中学生くらいのおとなしそうな娘さんとそのお母さんの親子連れが来ていました。だいたい多くのモノノフの皆さんは騒々しいうえにド派手なイデタチで来ている方が多いのですが、そのお母さんは一般人の格好。娘さんのほうも普段着に黄色の“しおりん”推しのTシャツだけ重ね着して、物販の長蛇の列に並んで買ったのでしょうか(雨の中大変だったでしょうに)、今回のドームツアー仕様のペンライトを持って、お母さんと一緒に楽しそうに振っていました。ライブが進んで、歌手のさだまさしさんがももクロに贈った「仏桑花」という歌(仏桑花はハイビスカスの花のことで、結婚していく娘さんが両親に向かって感謝を述べるようなイメージの歌)になったときのことです。歌を聴きながら娘さんがしきりと涙を拭っていることに気がついて、びっくりしてしいました。そのとき突然「嗚呼!この娘は本当にお母さんが好きなんだろうなあ」という思いが浮かび、どうしたものかこの親子の幸せを祈りたいような気持ちになるとともに、うっかり目頭が熱くてなってしまったのです。こういう目立たぬ名もなき小さなフアンたちのためにも、ももクロの皆さんにはこれからもずっとアイドルでいて欲しいものだと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「吽(*うん hum)字の中に訶(*か ha)字が含まれる。これはハ・ハ・ハ(ha-ha-ha)という笑声を含んだものである。大笑いの意味である。しかも、吽字には、上と下に、三昧耶を示している。上と下には、自利と利他を通るものである。自ら楽しんで大笑、他人を救って大笑、三世諸仏はみなこのような観をなすという」

(梅原 猛著「空海の思想について」より)

* 筆者注

 

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方便を究竟と為す その弐拾参

方便を究竟と為す

その弐拾参

(この文章は平成27年秋に医師会雑誌に投稿されたものです)

 

先日、千葉の幕張メッセで“ももクロ”が「親子大会」を開くというので今年82歳の母親をつれて出かけてきました。母はいまだにゴルフをしているので、足腰に不安はありませんでしたが、果たして“笑顔の天下”を目指す御主君方が高齢者の目にどう映るか興味がありました。今後「シニア大会」、「チョイワル老人大会」あるいは「おとぼけ老人大会」ができるのか、良い試金石になると思いました。そもそも「親子大会」である以上、親子での参加が必須条件でしたが、自分の子供たちを参加させるのは針の穴にラクダが通すくらい望み薄だったからです。

 

主催はピンク色担当の『絶対アイドル』“あーりん”こと佐々木彩夏さんでした。“あーりん”は以前書きましたように、「おじいちゃん・おばあちゃん大会」をしてみたいと言っていましたし、以前から「子供祭り」というのはありましたので、今回わざわざ“親子”と銘打つからには高齢の親を連れての参加も想定しているに違いないとピンと来たのです。果たしてその通りでした。

いや、親子で観劇?に出かけるなぞ何年ぶりかと感慨にふける一方で、はたしてこんな高齢者を連れてきているフアンはほかにいるのだろうかと不安も。しかし会場に到着すればそれも杞憂に。50−60歳代はゾロゾロ。70歳代になるとはさすがに減りますが、80歳代も5−6人はいましたし、最高齢はなんと86歳とのこと。いつもよりもさらに老若男女の多彩な組み合わせが目につきますし、どうみてもシロウトさん、あるいは真っ当な社会人、しかもいい年した大人たちが、人目でそれとわかるオバカなモノノフたちと一緒に会場を闊歩していたからです。しかし果たしてここは“アイドル”のライブ会場なのだろうか・・・・。ももいろクローバーZ(MCZ)が世界に“天下布笑”の旗印を掲げるのもそう遠いことではあるまいと夢想にふけるのでした。

 

話は変わり、本当の夢の中。前回、弘法大師の「即身成仏の頌」をいじって文章を書いたところ、夢でうなされてしまいました。鮮やかな月輪を背景に端座する大師のお姿。怒っておられるのか、手に持つ五鈷杵を振り回しながら興奮して盛んに何かお話になるのですが、こちらは危なくてしかたない。五鈷杵というのは神々が手にもつ雷(イカヅチ)を模したものとの説もありますので、ももクロの紫色担当の“感電少女”れにちゃん(高城れにさん)ではないですが、ビリビリ感電!でイチコロになるところでした。しかし大師が何をおっしゃっているのかはサッパリわかりません。大汗かいて目が覚めましたが、言われたことがどうしても思い出せません。悩んでいると家人から、昨晩は「うんうん」うなされていたようだが、どうしたのかと聞かれ、ハッそうか! 大師は『吽字義(うんじぎ)』のことをおっしゃっていたのだと気がつきました。

 

大師はこうおっしゃったのです。最近は高野山の奥の院で祈ってばかりも飽きてきたので、お前がももクロ、ももクロとうるさいから、わしもときどきDVDを観ておる。高野山は緑が豊富じゃから、わしは緑色担当の『小さな巨人』“ももか”(有安杏果さん)推しじゃ。エヘン。それはともかく、今回お前の目を通して一緒にライブも生で観てみたのじゃ。例の“親子大会”じゃ。わしも、ももクロのライブは世界のすべての人々に笑顔と喜びを伝えられるのではないか、と感心しておったのじゃ。するとある大事なことにはたと気がついた。それを人々にぜひ伝えたいのだが、いかんせん、いまわしは物質としての肉体を使えないのでかわりに書いてくれというのです。それは大師が物質的身体で活躍しておられた当時の日本では、著書である『吽字義』に書こうにも書けなかったは、恐るべき“吽字”の秘密なのでした。

 

* 「おまえの文章は長過ぎて誰も読まない」と母が言うので以下は

その弐拾四に。乞うご期待のほど。

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方便を究竟と為す その二十二

方便を究竟と為す

その弐拾弐

 

即身成仏頌

六大無礙にして常に瑜伽なり 四種曼荼各々離れず

三密加持すれば速疾に顕わる 重重帝網なるを即身と名づく

法然に薩般若を具足して 心数心王刹塵に過ぎたり

各々五智無際智を具す 円鏡力の故に実覚智なり

(空海『即身成仏義』より)

 

在宅医療などに係っていると、やっていることが医者なのか僧侶なのかわからなくなってしまうことがよくあります。そろそろ「保険診療医」なんか足を洗って、ホトケの道でも歩もうかなどとガラにもなく菩提心を起こすのですが、嗚呼そんなことをしたら「ももクロ」のライブに行くお金が稼げないじゃないかと気がついていつも思いとどまっているのです。

さて今年も「夏のバカ騒ぎ」、夏のライブの季節がめぐってきました。去年から『桃神祭』と呼ぶようになったのですが、これがいい年したオッサンにはある意味命がけのライブなのです。今年はリーダーの百田夏菜子(かなこ〜↗︎)がその故郷である静岡に錦を飾る凱旋ライブとのことで、「エコパスタジアム」という交通の便の悪い辺境の地での開催ともあって、参戦に二の足を踏んだものの、我がご主君の一大事に駆けつけぬ家臣がおるかということで、MCZ担当理事としての仕事!でもありますし、申し込んだチケットが当たってしまいましたので、いつものように万難を排して参加することにしました。

 

ライブの内容はそれはもうすばらしいの一言で、詳細はネット情報をご参照いただきたいと思います。ところで、今回のライブ一日目は『ももいろクローバーZ 桃神祭2015 エコパスタジアム大会〜御額様(おでこ様)ご来臨〜』、二日目は『同〜遠州大騒儀〜』と銘打ってのライブでしたが、会場入り口にはリーダー百田夏菜子のオデコを模した大きな金色の像(御額様(おでこ様))が現れ、皆さん暑い中喜々としてその前に列をなして“参拝”していました。暑さで朦朧とした私の目にはその像は光り輝く存在、大日如来像に思えてなりませんでした。そのとき、既に「ももクロ」のメンバー5人の背後には、日本に“笑顔の天下”を広めんとして、阿弥陀如来を超えたさらに大きな力、すなわち大日如来を中心とした五仏(阿弥陀如来も含まれる)がお控えになっていることに気がついたのでした。そういう気持ちでライブ会場にいたところ、弘法大師の難解な著作『即身成仏義』は「ももクロ」のライブで読み解くことができることに突然気がついたのです。熱中症になりかけた頭に浮かんだことですが、どうぞおつきあい下さい。

 

 

六大無礙にして常に瑜伽なり

ここ静岡のエコパスタジアム、「ももクロ」のライブ会場には、炎天下、紫・赤・緑・黄・桃のメンバーカラー、そして「箱推し(誰かひとりに限定せずメンバー全員を推す意味)」の黒の6色の衣装に身をまとったモノノフたちが入り乱れている。このくそ暑い中よくもまあこれだけのおバカが集まったものだが、それはまるで世界は地・水・火・風・空の五大に識(こころ)を加えた六大で世界が出来上がっていると弘法大師が述べたことの比喩のようだ。

四種曼荼各々離れず

異なる世界の相を表す四種の曼荼羅が互いに関連しあって離れること無く活動しているように、モノノフたちも老若男女、出身、国籍、職業を問わず集まり、その心は「ももクロ」を応援する気持ちで一つになっている。

三密加持すれば速疾に顕わる

各々が推しているメンバーを心に描きながら(「意密」に相当)、コール(「うりゃ」「おい」を連呼したり、メンバーの名前を叫んだりする。「口密」に相当)やフリコピ(メンバーのダンスをまねて踊ること。「身密」に相当)しながらライブにうち興じている姿は、まさしく現代の三密修行であり、あっという間に「ももクロ」のメンバーの背後にいる大きな力(今回はさしづめ大日、阿弥陀、阿閦、宝生、不空成就の五仏か?)に繋がることができるのだ。

重重帝網なるを即身と名づく

モノノフの手にするペンライトの五色の光が生み出す幻想的な世界は、まるで帝釈天の部屋を飾る無数の宝珠が互いの光を映して煌めきあっているかのようだ。我々は一人一人がそのままこの光輝く宝珠の一つ一つであることを理解することが、「即身」の教えである。

法然に薩般若を具足して

すべての宝珠に大日如来の「一切智智」が宿るように、夏のライブに参加するため「頭のネジを外してバカ」になったひとりひとりのモノノフの心も、(邪心が抜けているので)あるがままに大きな存在の心に照らされているのだ。

心数心王刹塵に過ぎたり 各々五智無際智を具す

ドームを埋め尽くす無数のモノノフ、そのひとりひとりの心やその働きに、大日如来(ライブに降臨した御額様(おでこ様)、リーダーの百田夏菜子がその象徴、リーダーは「おでこ」が広く、反射光でいつも輝いており、他のメンバーやモノノフをその光で照らしているという・・・)の法界体性智を中心とした「ももクロ」のメンバーに象徴された五智五仏の際限なき智が宿っているのだ。

円鏡力の故に実覚智なり

黄色担当、通称「みんなの妹・しおりん」こと玉井詩織に、「おまえら〜、あたまのネジをははずしてきたか〜? バカになれ〜!」と煽られて、炎天下、暑さと脱水で朦朧としたモノノフの心は真っ白ですべてを映し出す鏡のように澄み切っている。このような心にこそ大日如来のこころが現れて、実在の真理が開示されるのだ〜!! (ホンマかいな?)

 

「この身このままであなたは仏であるのだ」というのが即身成仏の教えです。どういうわけか、最近また弘法大師が気になって読んでいますが、いつも難解で途中で放り出してしまうのですが、「即身成仏頌」の内容が「ももクロ」のライブにそっくりだとの気づきが、今回は深読みに導いてくれました。その意味では「ももクロ」に感謝です。

「ももクロ」のライブ会場にはいつもちびっ子からお年寄りまで多彩なフアンがいますが、今回はなぜかお一人で来ている元気なお年寄りのモノノフをたくさんみかけました。暑い中、推し色のコスチュームとペンライト(紫色の方が多い)で身を飾った老モノノフの皆さんの勇姿には本当に勇気をもらいました。なぜか高齢の方は紫(担当高木れに、通称「れにちゃん」)推しの方が多いようです。紫色が天に近い色だからなのか? あるいは、れにちゃんがその優しさから「菩薩様」とよばれているからでしょうか?

ライブの最後の挨拶でリーダー百田夏菜子は、これからも大小どんなライブ会場でもみんなを笑顔にしていくこと、その景色を見続けていくことが自分たちの終わらない目標であること、自分たちは他と競争する気持ちは少ないが、みんなの笑顔だけは譲れないと述べていました。「これからは在宅・介護戦国時代だ」などと日本の将来を悲観視してしまいがちですが、「ももクロ」とモノノフの皆さんにはいつも元気をもらいます。そのピュアなパワーがこれからの日本の高齢者の皆さんに生きる力と喜びを与え、“笑顔の天下”が広まることをこころより祈りたいと思います。

安藤五徹

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方便を究竟と為す 特別編

方便を究竟と為す

特別編

 

 

切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ

踏み込みゆけばあとは極楽

 

先日、休みというのに千葉文化センターまで、大川会長と事務の小寺さん、松崎さんといっしょに千葉文化センターで行われた、『千葉県在宅ネットワーク平成25年度第2回研修会』に行ってきたのだ。断っておくのだが、なんだか現在執筆中の「その十六」に登場する「バカボンのパパ」が頭の中に居座ってしまい、語尾が「のだ」になってしまうのだ。そのうち治ると思うので「少し様子を見てみましょう(開業医の十八番、テキトーなのではなく「適当な」、人間の自然治癒力に信頼をおいた言霊)」なのだ。

基調講演の前半は「知」の上野千鶴子先生が、後半は「情」の小笠原文雄先生が話されたのだが、この組み合わせはまるで、佐々木小次郎(上野先生)と宮本武蔵(小笠原先生)が切り結んでいるようで、良いコンビだと思ったのだ。特に、上野先生は学者だから伶俐な印象なのだが、先生が集めた情報に基づいて語られる今後の見通しがあまりに絶望的な内容なので、それを聞き終わった後は、まるで線香の香りの中を、「御愁傷様で・・・(チーン)」てな感じになってしまったのだ。例えば、「国はもう病院は本当の急性期のみであとは在宅にしようとしている」とか、「国はもう金のかかる老人ホームは作らない」とか、「現政権は消費税もいつの間にか社会保障以外で使おうとしている」、「今後はひとりだろうが、家族がいようが、家で死ぬのは当たり前になる」などなど。この通りのお言葉ではなかったかもしれないが、概略こんな感じで話が続き、トドメの一撃は(「倍返し」ではなく「ツバメ返し」なのだ!「バカボンのパパ」だから「オヤジ・ギャグ」も許されるのだ!)、上野先生が挙げられた「おひとり様が在宅で死ぬ為の3点セット」が、「24時間の訪問医療、24時間の訪問看護、24時間の訪問介護」とすべて「24時間」の但し書き付きで来たもんだから、ノックアウトなのだ。何故かというと、今いろいろアンケート調査中だが、いまのところ当地区で「夜間対応型訪問介護」や「定期巡回・随時訪問サービス」を提供できる事業所はないからなのだ。これをお読みの先生方も、24時間の「対応」でなく「訪問」と言われたら、「ドン引き」になるに違いないのだ。

ただし、講演ではこのあと、歌手の南こうせつさんにお百姓を10年くらいさせたらこんな感じになるかというような小笠原先生が登場して、「仕事を終えてからの往診なんて本当に嫌なもんですよ、皆さん」「まあ、あんまり難しく考えんで、家で死んだらいいじゃないか」(まさしく、「これでいいのだ!」の精神なのだ)てな雰囲気で、ご自身の体験例を中心にココロが暖まる救い話をされたのだ。だから、聞いている皆さんは、ちょうど映画『宮本武蔵』を見終わったあとのように、「小次郎破れたり!」(ここでの「小次郎」はもちろん上野先生ではなく、上野先生によって俎上にのせられた在宅医療・介護の絶望的な状況を意味しているので誤解なきようお願いするのだ!!)てな感じで暖かいココロで帰ることができたのだ。フムフム。あーっ! しかし困ったなのだ!! 当地区で予定されている上野先生のご講演は私の話の後なのだ。もとより在宅医療の経験・知識の乏しい自分に小笠原先生の代わりが務まるはずもないのだが、最後に上野先生のあの在宅医療・介護の現況の話を皆さんが聞いたら、きっと会場をあとにする皆さんの姿を見たよその人は、「今日はよほどエラい人が亡くなったのだろう。みんなあんな悲しそうにトボトボ歩いて・・・」と思うに違いないのだ。うーん。また、頭をかかえてしまうのだ。これは大ピンチなのだ・・・・・・。

 

 

頭を抱えて寝たためか、とんでもない夢をみたのだ。以下思い出しながら書いてみるのだ。なんだか「ももクロ」の恒例の茶番劇に沿った内容だったのだ。

 

夢の中・・・・

(「ももクロ」の「赤色」担当(以下「赤」)、「我らがアホリーダー」の呼び名も高い百田夏菜子さんがケータイ電話でお助けロボである「あーりんロボ」を呼ぶ。まあジャイアント・ロボの「ももクロ」版)

赤:「お願い、助けて、あーりんロボ! 茂原市長生郡の在宅医療がピンチなの!!」

(ここで段ボール性のロボットの衣装をつけた「あーりんロボ」こと「ももクロ」のピンク色担当(以下「ピンク」)、佐々木彩香さん(愛称:「あーりん」)が『だってあーりんなんだモーン』というソロの持ち歌のBGMとともに舞台の袖から登場し、「あーりーん!」と叫び、茶番が始まる」

ピンク:「ピンク?」(「あーりんロボ」はピンチをピンクと聞き間違えている)

赤、黄、緑、紫(以下「他のメンバー」):「ピンチよ! ピ・ン・チ!!」

ピンク:「ピンクー!?」

(ピンチをピンクと聞き違える茶番がひとしきり続いた後で、「赤」が今回何故「あーりんロボ」を呼んだか、茂原市長生郡医師会の在宅医療担当理事が悩んでいる事情を説明すると、「あーりんロボ」はしばらく考えるフリをしてからオモムロに・・・)

ピンク:「わかったわーっ!」」

(皆喜んで答えを待っていると・・・)

ピンク:「悩まなければいいのよーっ!」

他のメンバー:「そっかーっ!最初から悩まなければいいんだ! 良かったね、安藤先生!」

ピンク:「こんなのオチャノコあーりん!」

(と言って去ろうとする「あーりんロボ」に向かってツッコミ役で参加しているお笑いタレントの「東京03」の飯塚悟志氏があきれながら「おいっ!お前ら何が良かったね、だ!なんにも解決してないじゃないかーっ!」と叫び、茶番が続く・・・)

 

ここまで来て夢からさめたのだ。あービックリしたなのだ・・・・が!、ちょっと待てよ!!!なのだ。聞き違えには重大な無意識からの情報が隠れているとフロイト先生も言っていたが、とてつもないことに気づいてしまったのだ!

 

冒頭の歌は、勝海舟が『氷川清話』の中の『余裕と無我』と題した項の中で、昔の剣客の歌として取り上げているのだが、宮本武蔵の詠んだ歌が元だとの説もあるのだ。それはさておき、この歌の前段「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ」はまさに「ピンチ」の状態を示しているのだ。切り結んでいる太刀は人間の思考が作り出す価値観の対立、つまり「悩んだ状態」を指していると思うのだ。在宅で死ぬか病院で死ぬか、胃瘻を付けるべきか付けないべきか、家族による看取りは必要か必要でないか、最期まで病気と戦うべきか戦わないべきか、などなど。どちらが正しいか、2元対立であり、思考のおしゃべりには際限がないのだ。そして後段の「踏みこみ行けばあとは極楽」は、その2元の対立を超えて進んで行ったところ、つまり「あーりんロボ」が「悩まなければいい」といったところに非2元の世界、無我の境地、極楽があると言うのだ。2元対立の思考のレベルを超えたところに魂の座である非2元のハートの世界がある。そしてハートを象徴する色は・・・、「ピンク」なのだ! こいつはビックリなのだ! 海舟が「無我の妙諦は、つまり、この裡に潜んで居るのだヨ」と賞賛した昔の剣客の心境を述べた歌と、現代の「ももクロ」の茶番が見事にシンクロしており、同じ真理を異なる仕方で表現していたのだ! 「ももクロ」恐るべしなのだ! 言い換えると、「あーりんロボ」は「ピンチ」を「ピンク」と聞き違えることを通して地獄の状況を極楽の状況に変えてしまうという恐るべきお助けロボだったのだ〜っ!! (ホンマカイナ?)

 

 

坂口安吾の『青春論』には、いかに宮本武蔵があらゆる状況を臨機応変に活用して死地を乗り越えたかが書かれているのだが、小笠原先生と上野先生の共著である『小笠原先生、ひとりでも家で死ねますか?』(朝日新聞出版社)を読んでいると、上野“小次郎”が「これでも在宅ひとり死が可能か、武蔵〜!」と斬りつけると、「小次郎の負けだ! こうすれば(と言いつつ、ドラえもんがポケットから様々な道具を持ち出して何でも解決してしまうように、あらゆる手練手管を使って)在宅でひとりでも死ねる!!」と小笠原“武蔵”が斬り返すといったアンバイなのだ。

最近は猫も杓子も「在宅、在宅」で、やたらに会合やセミナーが多いのですが、思考の力に頼ってばかりでは埒が開かず、『会議は踊る』状態ではないでしょうか。在宅看取りの要諦は小笠原“武蔵”の「まあ、あんまり難しく考えんで、家で死んだらいいじゃないか」の一太刀、というか一言で十分ではなかろうか。ごちゃごちゃ理屈ばかり言って勝手に「ピンチ」と思い込まず、まずは与えられた状況と資源を最大限に利用して無我の境地で今一歩踏み込んで行動していけば、「ピンチ」的状況はいつの間にか「ピンク」色のハートの世界に変わるということなのだと思う今日この頃です。

(この文章は「茂原市長生郡医師会報 平成26年2月号」に既に投稿されたものを、医師会事務局の許可を得て一部改変して掲載しています。)

 

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方便を究竟と為す その十七の①

方便を究竟と為す

その十七の①

 

呂祖師は言った。・・・天上の光は見ることができない。それは両目のあいだに含まれている。・・・ゆえに、汝のなすべきことは光を巡らせることのみ、これが最も深淵で霊妙な秘法だ。

(Osho 『黄金の華の秘密』)

 

平成26年3月16日夜。日中よく晴れ渡った分、日暮れとともに寒風に見舞われた国立競技場であったが、二日間にわたって繰り広げられた「ももいろクローバーZ(MCZ)」の圧巻のライブもそろそろ終了に近づいていた。19ゲート南側スタンド席Q22、ほぼ聖火台の真下の位置から見下ろす会場を埋め尽くす5色のペンライトのきらめきと、それに照らし出される群衆の姿は実に壮観なものがあった。

今回のライブでは、会場での物販として赤緑黄桃紫の5色に切り替わるペンライトが売られたため、普段は自分が推すメンバーの担当色に合わせた色のペンライトを振っていたモノノフたちも、今回のライブでひとりひとりのメンバーがあいさつする際や、誕生日を迎えたメンバーを祝うサプライズに際して、会場にいる人々が一斉に同じ色に変える情景が見られた。それはまるで、ペンライトの色の変化が一つの大きな意志によって動かされているような幻想的な情景でもあった。

二日目のライブの最後、5人は寒風吹きすさぶ聖火台にあがり、ひとりひとりが自分たちの来し方行く末、これからに向けての決意を語ってくれた。皆涙ながらにこれからもMCZとして進んで行く意志を表明して感動的なあいさつばかりだったが、最後のリーダー、百田夏菜子さん(赤色担当)の言葉は聞く者の心を激しく打った。

いわく、彼女たちの目標は決して大きな会場でやることではないこと。大きさには限りがあるから。彼女たちは確かに「天下」を取ることを目指す。しかしその天下は「アイドル界」や「芸能界」の天下ではなく、人々を「笑顔」にすることにおいての天下であること。そしてそれには終わりがないこと。いままでは大人に作ってもらった壁を乗り越えてきたが、これからは自分たちが先頭に立って進まなければならないこと。その道は険しいが、道に迷った時はモノノフの皆が手にするペンライトの光を道標として進んでいくつもりであること。概略こんな感じだったと思うが、このあいさつが会場内外のモノノフの涙腺を崩壊させ、今回の国立2daysの神ライブの地位を不動のものにしてしまった。

寒さに震えていた聖火台真下のこの「オジさん」もこの時ばかりは、一大感動を発して身じろぎもしない状態で、時間は止まった。眼下にきらめく赤一色の世界と、ほのかな光に照らし出される人々の幸せそうな小さな顔の一つ一つを眺めていた。人々が口々に叫ぶ「ありがとう」の声が勝鬨のように聞こえてきた。映画『風林火山』の最後の場面が思いかぶ。ウラをかかれ、遅れて戦場に到着した先手組の赤備えの武田の騎馬隊が、背に赤い旗指物をひらめかせながら上杉勢めがけて突撃する。自らも深手を負い、かすれゆく意識の中でその様を見た三船敏郎扮する山本勘助が、亡き由布姫に向けて味方の勝利を告げる。映画の台詞どおりではないが、「姫様、我らが勝ちましたぞ。御味方の大勝利にござる」との言葉がぼんやりと脳裏に浮かんできた。

 

 

眼下を埋め尽くすきらめくペンライトの光をみているともう一つ別の話を思い出した。その話とは華厳経の「鏡灯の喩え」である。

中国道教の有名な仙人のひとりである呂厳(呂洞賓あるいは通称呂祖師)が、内丹法(修行によって人体内部に丹(不死の霊薬)を創造する方法)の技法である「周天法」の奥義を伝えたとされる『太乙金華宗旨』(リヒャルト・ヴィルヘルムによって発見・翻訳され、西洋にはその友人であるユングの協力によって『黄金の華の秘密』として紹介された)に関する講話録のなかで、Oshoが話をしている。

昔々中国の女帝、かの則天武后が導師の法蔵に「宇宙的な相互依存の法則」を尋ねた。すると法蔵は、宮殿の一室を借り受けると、その部屋の八方と上下を覆うように大きな鏡を置き、その中央に一本のろうそくをつるして灯をともして見せた。そこには鏡に反射しあう無数の炎の幻想的な世界が出現したが、さらに法蔵はおもむろにその炎の鏡像のうちの一つを覆ってみせることにより、いかに全体が大きな変化を受けることになるか、換言すれば、この世界のあらゆるものが相互に関連しあっているとともに、ささやかな個々の干渉が我々の世界の有機的統一にいかに影響を与えるかを示したのである。則天武后はその美しさに息をのむとともに、一(中央の灯のついたろうそく)と多(鏡に映されたろうそくの像)、個々の存在と他の万物との関係を理解したという。最後に法蔵は、これらすべてを小さな水晶玉に映してみせた。無限に小さなものがいかに無限に大きなものを蔵していることを示してみせたのである。

 

「上のごとく下もまたあり、下のごとく上もまたある」とはエメラルド・タブレットにあるヘルメスの有名な言葉だが、天と人、社会と人、大きさの異なるシステムどうしであっても、この世界は互いに照応しあう関係にある。以前ご紹介したルドルフ・シュタイナーにも、「社会有機体三分節」という考えがあるが、彼は人体の活動を精神活動に関わる神経系、物質活動に関わる代謝・運動系、そして両者をつなぐ働きをする呼吸・循環器系の3つに分けてとらえていた。そしてこの3者は人間の魂の3様相である「思考(知)」、「意志(力)」、「感情(愛)」にそれぞれ対応して働くと考えた。彼は同じように有機体としての社会にも、思考活動としての「精神」的生活、物質的な「経済」的生活、そして両者の調和をはかる「法」としての生活があり、それぞれが人間における「思考」、「意志」、「感情」の活動に対応すると考えた。さらにこれらの3つの生活ではそれぞれ「自由」、「友愛」、「平等」を目標にするものとされた。

このような「照応」の考えによって当地区の在宅医療活動への提言をなそうというのが、今回の目的である。在宅医療も一つの有機体である。すでに述べたが、「在宅医療の黄金の三角形」を構成するのは「知」のセンターとしての医師、「愛」のセンターとしての(訪問)看護師、「力」のセンターとしての地域住民の皆さんだと考えている。私の直感では、これらの3つのセンターは、わかりやすい喩えを使うなら、道教の内気功あるいは内丹法でいう「上丹田(頭部にある『神』すなわち「霊」あるいは「知」のエネルギーセンター)」、「中丹田(胸部にある、『気』すなわち「感情」あるいは「愛(ハート)」のエネルギーセンター)」、「下丹田(腹部にある、『精』すなわち「力(生命、代謝)」のエネルギーセンター)」に見事に対応している。わかりやすくなどと書いたが。「丹田」は解剖学的構造ではないので、その位置や広がりには諸説あり、異論のあることを承知のうえで「頭部」、「胸部」、「腹部」とさせて頂いた。周天法はこの3つの丹田の間で「気(エネルギー)」の巡回を生み出し、「気」を高める方法(練丹法)である。呂祖師は、技法の要諦は難しいことではなく、貴方が自らの中に「天上の光」を蔵していることに気がつき、それを全身に巡らせ、全身をその光で照らし出すことに過ぎないというのである。

在宅医療の「力」のセンターには「知」のエネルギーが、「愛」のセンターには「力」のエネルギーが、「知」のセンターには「愛」のエネルギーが必要だの述べてきたことは、この3つのセンターの間でエネルギーの巡回させる方向が「周天法」における「気」の巡回に似ていることに気がついた。したがって、個人が自らの気、エネルギーを高めるために「周天法」を行うのと同様に、「より大きな有機的存在」ともいうべき「在宅医療」を構成するの三つのエネルギーセンターもこの方法で内的エネルギーを高めてもらうことができるのではないかというわけである。次回はその話をしようと思う。

 

さて、モノノフを感動の嵐に巻き込んだ我らが御主君、MCZの姫君たちだが、ライブ終了後そのままラジオの生番組に出演、ライブの疲れも見せず、今度は打って変わったグダグダ、ハチャメチャトークを繰り広げた。私もあとでネットにアップされたものを聴いたのだが、あげくの果てには我らが親愛なる「アホ」リーダー、百田夏菜子さんのトドメの一撃の一言、「私さあ、全然関係ないんだけど・・・、私すっごいラーメン食べたいんだけど!」で爆笑の中ラーメンの話題に突入して終わったのだから恐れ入る。これでは討ち死にしたはずの山本勘助も慌てて生き返るに違いない。ライブ終了後ナマでこれを聞いていたモノノフたちは一斉にズッコケて、「さっきのライブの感動を返してくれ〜!」との悲鳴があがったらしい。といいながら、実はみんなニヤニヤしてしまうのである。さすが、大先輩の加藤茶さんとコラボした際、私たちは「ドリフ」を目標にしていますと堂々宣言するだけはある。ほとんど漫画「キン肉マン」の主人公を地でいくこの天然ボケこそはリーダーの真骨頂であり、他のモノノフ氏の言葉を借りれば「かっこ良くて、可愛くて、アホ」こそがリーダーとMCZの真髄だ。こうして老若男女を問わず、モノノフたちはいつも笑顔にさせられているのである。

ここまできてあらためて気がついた! 「笑顔」こそは究竟の方便だ。道元禅師に「和顔愛語」の言葉がある。「和顔」は「笑顔」だ。二つは一つのものだ。「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」(愛語には天をひっくり返すくらいの力があることを知れ)と道元禅師はいった。だから「笑顔にも廻天の力がある」のだ!! 余計な思考に邪魔されない障害者の笑顔の中にこそ魂の輝き(天上の光)は宿っているとシュタイナーはいった。だから笑顔を通して思考を超えた「天上の光」に至らしめるのだ。「診察室にもっと笑顔を!」だ。「君、そんな不真面目なこといっちゃあいかんよ」という御仁にはノーマン・カズンズの『笑いと治癒力』を読むことをお勧めしたい。

MCZの「笑顔の天下統一」の大望の一翼を担うべく(在宅医療問題はどこへ行った?)、九十九里の辺境の地(などと言ったら「アンだって〜!?」と白子町民にしかられるか?)を守るこの初老の一家臣も、粉骨砕身する覚悟である。ラーメン騒動もなんのその、感激のあまり我が旗印を思いついてしまった。織田信長の『天下布武』にあやかって同じ読み(テンカフブ)の『天下布舞』にしようかと思ったが、ちょっと面白くない。やっぱり『天下布笑』がいい。何? テンカフショウ? 重みが無い上に、読みがかなり違うって? 大丈夫! これはこう読むのだ!

『てんかふ「プッ!」』*と。

 

*その後スタッフの中から『てんかふ「フフッ!」』との新しい読み方をするツワモノが現れ、実に感じ入った次第です。イタダキマシタ!! そういえば吹き出し方は人それぞれですから、「プッ」ではなくて「ブッ」でもいい訳で、そうすると、もとの天下布武(テンカフブ)とそうかわらないことになるわけで・・・。こうなってくるといよいよ「医者ともあろうものが」の世界になってきました。

 

あんまり長いので②につづく

安藤五徹

*この文章は次回の医師会報に投稿予定の最新のものです。

 

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方便を究竟と為す その十三

ほんものの奇跡は よい因果応報の果て

奇跡じゃなくて自分の中から みちびく 未知の力

(ももいろクローバーZ 『GOUNN』より)

 

秋のある日、理事会が始まるのを待っていると、大川医師会長がやっていらして、終わったら話があるので待っていて下さいということでした。ああそうか!また例の「国民的アイドル」の話を会報にどんどん書いて下さいというのだなと思っていたら、豈図らんや! 来年の6月に医師会主催で開催される健康フォーラムで、今回は在宅医療の話題を取り上げるから、ついては社会学者の上野千鶴子氏のご講演の前に、当地区の在宅医療資源について調べて報告すべし!とのことでした。いやーまいった、仕事の話だ!ただでさえ医療資源が乏しい当地区で、しかも上野先生のご講演のテーマが『在宅ひとり死は可能か?』だとー!? いかなる悪しき因果応報の果てにこの仕儀と相成ったものか? もしかすると前回取り上げた「わたしたち 泣いている人に 何が出来るだろう」の「泣いている人」って自分のことでは?と再び頭を抱えてしまいました。

 

仕方がないので急遽ネットや書店でごっそり関係図書を買い込んで休日はお勉強開始。PCの画面ばかりみていたせいか、オメメは真っ赤に充血。まだ半年以上もあるのに、今から準備すんのか?と家族はビックリですが、「敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず」で、己の知識が空っぽなのはよくわかっていますから、とりあえず今後のメドを立てねばといったところでした。まず、上野先生と執筆当時日本在宅ホスピス協会会長だった小笠原文雄先生との共著であり最新作の『上野千鶴子が聞く 小笠原先生、一人で家で死ねますか?』(朝日新聞出版)を拝読。知らないことばかり出て来るし、当地区ではホスピスのホの字もないのになあと嘆息することしきり。しかし救いはあった!実は、小笠原先生は最初からバリバリの在宅医療推進者として開業された訳ではなく、開業当初はむしろ腰が引けていたといいます。おお!私たちとそう変わらない! ところが、奥さんにはもっとしっかりかせぐために往診しろといわれ、看護師にはもっとまじめにやれと尻をたたかれて、やむなく在宅を始めましたという話が載っていて、思わずホッコリしました。明日の茂原長生地区にも希望の光がある! 明日の我々は今日の小笠原先生の可能性ありだ! その後は当たるを幸いに、目についた書籍を手当たり次第めくっていたところ、ちょっと変わった人の著書に出会いました。

 

その本は『幸せな旅立ちを約束します 看取り士』(コスモ21)という本で、『おくりびと』みたいな響きだが、そんな資格があんのか?という興味と、カバーの表紙にある著者のお顔の写真が何となく印象深いので買って読んでみました。キャリア・ウーマンだった柴田久美子さんが、様々な厳しい体験を経て、病院のない人口600人の離島で看取りの家『なごみの里』を設立。入居者本人の望む自然死で、その方が亡くなる時は抱きしめて看取る実践をされてきたとのことです。最近では米子で在宅支援活動を展開し、終末期介護のモデル作りを目指すとともに、全国に「死の文化」を伝えるため講演活動して回っているのだそうです。『看取り士』というのは彼女が考えたもので、ホームページでみますと、ヘルパー2級の資格をもち、彼女の考えた2週間の研修コース修了者に与えられるようです。ですから介護士やヘルパーなどの国家資格ではないのです。さらには各家庭に出向いて看取りを行う『エンゼルチーム』というボランティア活動(もちろん死亡確認は医師が実施するのでしょうが)を行っているそうです。一億総ヘルパー時代に突入する今日、介護士や看護師が不足する当地区でも、彼女の活動は一つのあり得るモデルとなるかもしれません。『なごみの里』での介護職員の給与は島根での最低賃金(ナント!月12万前後)同然!とのことですが、あまりやめて行く人はいないそうで、アルバイトなどしながらがんばっていらっしゃるようです。同じことは前々回(当HP未投稿)で取り上げた、ドイツで「ルドルフ・シュタイナーの人智学」に基づく高齢者介護施設を運営されているザビーン・リンガーさんもおっしゃっていて、仕事の内容や理念に納得してその職場で働き始めた人は、仕事がきつく、給与が低くてもあまりやめないそうです。介護や在宅医療の話題が、施設の数や国家予算、高齢者の急増、介護士や看護師の不足など、「量」の問題であることが多いのですが、もしかすると、このような「介護(ケア)の本質」という意味での「質」、ケアすることの意味・意義の視点から切り込んでいくと、違う展開がひらけてくるかもしれないと思いました。

 

見開き1ページを超えたら誰もそんな長い文章は読まないと家族がいいますので、まだまだ書くべきことがワンサとありそうなのですが、そろそろ今回のまとめです。柴田さんはどちらかといえば、お国柄か神道系だそうですが、宗教家というわけではなく、どの宗教にも敬意を払っていらっしゃるそうです。その柴田さんが亡くなっていく方を抱きしめていると、その方から「魂」のエネルギーが自分に伝わってくることを感じると言います。

『・・・人間は両親から三つのものをいただいて生まれてきます。「身体」

「良い心」「魂」の三つです。「身体」は死という変化で朽ちてしまいます

が「良い心」と「魂」は子や孫に受け継がれていくと思います。日々、私

たちは暮らしの中で喜びや愛を積み重ねていますが、自分の魂にもそれら

は蓄えられています。その魂が最後に、愛する人に受け渡されるのです。

看取る人が旅立つ人を抱いて身体に触れて送った時に、その人の「良い心」

と「魂」が看取る人に受け継がれていくのです。人は皆、最後に愛や喜

び、生きる力を受け渡すためにうまれてきたのですから。』(前掲書より)

 

スーフィーの道を紹介したルシャッド・フィールドの小説『ラスト・バリア ースーフィーの教えー』(角川書店)に、似たような話があるのを思い出しました。

 

『・・・誰かが真の知恵に出会った時は必ず、ある種のエネルギーが放出

され、地球生命維持の壮大なプロセスのために利用される。普通、このエ

ネルギーは危機的な状況の一瞬、特に死の瞬間にのみ、十分な量が放出さ

れる。しかし今、地球が進化をし続けるためには、瞬間瞬間に死に、再生

し、意識的に生きて意識的に死ぬことを我々が学ばなければならないとこ

ろまで来ている。・・・』

 

死の瞬間、なにか「生命を慈しむ」大きなエネルギーが亡くなっていく方からあとに残される者に受け継がれるらしいのです。ではもし、亡くなって行く方が恐怖、絶望、悲嘆、混乱の中に置かれたらどうなるのか。おそらくそのエネルギーの流れにはブロックが生じるでしょう。だからそのエネルギーのあるべき流れをあるがままにあらしめることが大切であり、それこそ在宅医療が目指すところではなかろうか。フムフム成る程。それがお天道様の道であり、母なる地球と我々自身を助けることになるのだ。おお!素晴らしい!! 国家予算節約目的の在宅医療推進にはゲンナリだが、そういうことならやりがいもあろうというものだ!唯物論の牙城ともいうべき医療の分野が、この「未知の力(エネルギー)」に敬意を払う時、在宅医療に「ほんとうの奇跡」が起こること間違いなしだ! なんだか一人で盛り上がっていますが・・・。ちなみに柴田さんは自宅での死というものにはこだわってはいないようで、しあわせな死は、「死にたいする夢」(筆者注:こういう死に方をしたいという「希望」ということでしょうか?)があって、「手を握り抱きしめられて」見送ってくれる人がいて、それを「自分が決められる」ことで実現できると述べています。確かにそういう条件が満たされるのであれば、安心のために死ぬ場所は「自宅」である必要はなく、良いスタッフや環境が整っていれば、病院の病室や施設で亡くなってもいい。そうか!ではプロジェクトMCZ(詳細は「その十二」参照のこと)では「在宅」とは、亡くなって行く方の魂の安らげる場所、魂の「ホーム」を意味することにしよう! つまり、Zaitakuの頭文字『Z』(キターっ!!)には以前「不生不死、無限のイノチ」の意味があると書きましたが、「魂のふるさと」でもあった訳です。よっしゃあーっ!! ・・・・・どうやら話がまとまりました。

 

 

追記:恒例の写真を忘れていましたが、今回も素敵な仏教画(まさか写真?)がありましたので載せておきます。「桃色四葉Z菩薩」という女尊で、5面10臂(顔が5つに手が10本)のようです。「笑顔と歌声」で世界に光明をもたらす役割を持つそうで、光る棒を振りながら「ウリャ・オイ」とマントラを繰り返すと幸せになること請け合いだそうです。今年のNHK紅白歌合戦会場にも「楽天」という天からの“神の子”「マー君」といっしょにご降臨との話ですのでお見逃しなく!?

 

(この文章は、平成25年12月号の医師会報に掲載予定の原稿を、医師会事務局の許可を得て一部改変して載せています。)

 

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方便を究竟と為す その十二

(以下の文章は平成25年12月発行予定の医師会報に投稿したものを、医師会事務局の許可を得て、一部改変して掲載しています。)

 

『わたしたち 泣いている人に 何が出来るだろう

それは 力いっぱい 歌って踊ること』

(ももいろクローバーZ(以下MCZ)「Z伝説 終わりなき革命」より)

 

千葉県医師会が在宅医療や介護関連の活動に力をいれているので、会合にいく度に「何か取り組んで下さい!!!」と言われるものですから、強迫神経症のような状態になり、さてどうしたものかと頭を抱えていると、我らが国民的アイドルの歌の中からこのフレーズが浮かんでくるのでした。ミトラ教の研究者である東條真人氏によれば、イスラムのスーフィーたちが自分たちの神秘思想が“正統的”なイスラムの教えと矛盾しないことを示すために、コーランの一節を引用することを「アンカーリング」というのだそうです。スーフィーたちの神への愛や神との神秘的合一の思想、歌や踊りに寛容な態度は(彼らは「セマー」と呼ばれる音楽、舞踏、詠唱からなる儀式をよく行います。「歌って踊る」ことで世界を救うということからすると、MCZは禅者であるばかりでなくスーフィーでもあったのか!と今さらながら気づきましたが・・・)、ともすれば“正統派”のムスリムたちからは異端視されかねず、実際に何人もの人々が命を落としたそうです。私の場合も、MCZが世界を救うと信じているので、その証拠を歌詞の中に探して「アンカーリング」しているようなものかもしれません。

 

さて、MCZの皆さんは「笑顔と歌声で世界を照らし出す」ことに今日も励んでいる訳ですが、では私たちに在宅医療や介護の現場で何ができるのか。再び頭を抱えて悩んでいると、いくつかの顔と言葉が浮かんできました。最初は、マザー・テレサです。彼女によれば、人が死ぬときはとても大事な瞬間であり、天国に行くにはそのとき「清らかな心」でいることが大切なのだそうです。路上で倒れた貧しい人々を、せめて死ぬときは人間らしく死なせてあげたいと、彼女の施設に収容して看取っていったことは有名です。マザーのいた環境とはかなりかけ離れてはいますが、我々にあてはめれば、苦しむ相手は在宅で死にたくても死ねない患者さんであり、患者さんが最期を迎える場所として最もふさわしいのは、住み慣れた自宅に違いないという思いが続きます。しかし、これは感情論として理解できても、いまひとつ根拠がはっきりしない感じがします。マザーもあまり詳しい説明はしてくれていません。なぜ人は安らかな死を迎える必要があるのでしょうか。最期まで病院で病気と戦って、死ぬべきではないのでしょうか。死ぬ瞬間はどのように重要で、「清らかな心」とは何を意味するのでしょうか?

 

さらに頭を抱えていると今度はダライ・ラマ14世の顔が浮かんできました。チベット仏教は人の死後世界と輪廻転生をはっきり説いていますし、有名な「チベット死者の書(バルド・トドル)」では死後に人が経験する「バルド(中有)」という世界が詳しく述べられていることで有名です。その詳細は文庫版で翻訳書が簡単に手に入りますし、解説書も多いので、直接それらにあたられることをお勧めしますが、要旨をまとめると次のようです。死の直後から再生までの約49日間に死者が経験する「バルド」は、時間的に「死の瞬間のバルド(死後約3日間)」「存在本来の姿のバルド」「再生に向かう迷いの状態のバルド」の3段階を経るのですが、第1、第2の「バルド」で意識に出現する「光明(本来の自己、仏性、純粋なあるいは不滅の意識)」に気づくことが出来た場合、あるいはそれを逃しても次いで現れてくる第3の「バルド」のめくるめくイメージの世界が幻影にすぎないことに気づくことが出来れば、人は解脱することができるのですが、それを逃すと再生への道を進んでいくのだそうです。生前の修行で悟れなかった者が、死という精神的にギリギリの状態で解脱を果たそうとする訳で、その瞬間に死者が精神的混乱にあることをよしとしないのです。ダライ・ラマ法王は、その著作の中で「死ぬ瞬間」の重要性を、繰り返し述べています。

 

『・・・チベット仏教は、死ぬ直前の瞬間が非常に大切だと教えています。なぜならそれが死んでからつぎに生まれ変わるまでの「バルド」という期間のためにできる最期の準備のチャンスだからです。・・・この最期の瞬間を平静に迎えられるように準備をする必要があります。そうすることで、(仮に「バルド」の期間に悟れなかったとしても(筆者注))よい条件のもとに生まれ変わることができるでしょう。死ぬ直前の瞬間は、わたしたちがつぎに生まれ変わる先のキーを手にする瞬間ですから、非常に重要なのです。』

(「ダライ・ラマ 珠玉の言葉108」 ランダムハウスジャパン)

『・・・貴方が仏教を信仰しているか、その他の宗教かは問わない。死に際しては、心の平安こそが最も重要である。個々人は死の瞬間に、決して怒りや憎しみの感情を抱いてはならない。』

(「空と縁起 人間はひとりで生きられない」 同朋舎)

 

そうか、死ぬ瞬間はチベット仏教的には重要なのはわかった。しかし『チベット死者の書』に描写される「バルド」の世界は、チベットや仏教(特にチベット密教)の文化になじみがないとなかなか、ピンとこないな・・・。四たび頭を抱えていると、ついにOshoラジニーシの登場です。この人の手にかかると、古いチベットの枕経の世界が、現代の精神世界に通用する言葉として、鮮烈なインパクトを放ちながら読む者の心に突き刺さってきます。『OSHOダルシャン日本語版vol.4 (市民出版社)』よりいくつか「バルド」を解説した言葉を引用してみます。Oshoも、人は「意識的に」死を迎えるべきで、そうすることによって「バルド」の期間が、自分が肉体や心をはるかに超えた純粋な意識、知覚であることに気づき、輪廻転生の世界を脱却して覚醒(永遠の生、不滅の意識)に至ることができる大きなチャンスになる。そしてそのためには普段から(これは彼の持論ですが)、夢遊病者のように条件反射的に、無意識に生を送るのではなく、人生の一瞬一瞬を意識的に、喜びとともに強烈に生きる努力(一種の修行)をしなさいというのです。

 

『・・・死を生の絶頂として、自然な現象として受け入れなさい。それによって終わることは何もない。意識を保ち、起こっていることを見ていなさい―肉体がだんだんと自分から離れていくようすを、マインドが剥がれ落ち、バラバラになっていくさまを、あたかも鏡が落ちて粉々に砕けていくように、自分の感情、自分の心情、気分が・・・・自分の生を構成していたものすべてが、消えて行く様子を見つめていなさい・・・・(この「見つめているもの(観照者)」こそ本来の我々である訳です。(筆者注))』

(チベットの死の瞑想「バルド」より)

 

これはまるでコーランにおける終末の日の描写のようですね。あるいはまた・・・

 

『・・・死はあなたを この世の あらゆる区別を超えたところへ 人生の あらゆる愚かしいゲームを 超えたところへ 連れて行く だが 人びとはその人たちを助けずに その美しい瞬間を 壊してしまう 死は 人の一生における もっとも貴重なものであるのに たとえ彼が 百年生きたとしても これが もっとも貴重な瞬間だ・・・・』

(祝祭の瞬間 —大いなる死−より)

 

死に行く人を思いやりのない言葉で絶望させたり、怒り・悲しみ・憎しみで混乱させたり、不必要な延命治療で苦しめたりすることは、そのような貴重な瞬間を台無しにしてしまうのではないか。医者にとっても耳に痛い話が続きます。

 

『・・・・医者はその人に偽りの慰めを与える。その瞬間が、死というものを完全に自覚し、―純粋に余すところなく自覚しなくてはならない、純粋なる意識が体験される瞬間であることも知らずに。その瞬間は大いなる勝利の瞬間になる。今やその人にとって死は存在せず、永遠の生だけが存在する。・・・』

(祝祭の瞬間 –大いなる死—より)

 

そうか・・・・・・。「バルド」を信じるかどうかは人それぞれですが、終末期の人が安らかに死を迎え、最期の一瞬まで意識的に生き、死んでいける環境を整えることが、個人ひいては人類の「霊的進化」を助けることにつながるという思想がある訳です。・・・という訳で、最後になんとなく頭に浮かんできた考えはこんなことでした。「無条件にすべての患者さんの在宅での長期の療養を支えられる力は今の我々にないにしても、もうすぐお迎えが近い方々やその家族が、最も安心して最期を迎えられる場所として自宅を選ばれるのであれば、そのような短期間住み慣れた自宅で過ごし、静かに安心して最期を迎えさせてあげることぐらいはやれるのではないか?」ということです。もちろんいろいろな状況がありますから、話はこんなに単純でないことはよく承知していますが・・・・。おめでたいことに、最後の最後になってこのプロジェクト名まで浮かんで来ました。なんと!プロジェクトMCZ(案)です。(誤解ないようにお願いしますが、これはかの国民的アイドルMCZとは何の関係もありません。が入ってますから。)

 

(M) もばらしちょうせいぐんで

(M) もうそろそろお迎えが近いひとがいたら

(C) チョー安心して最期を迎えられるよう

(Z) ざいたくでの看取りをすすめるプロジェクト

 

「なんだこりゃ!?」という声が聞こえてきそうです。

 

注:今回は話しがやたら長いので(こんなに長い文章は誰も読まないといつも家族が言うのですが)、タンカやアラビア書道の写真はおやすみです。かわりに珍しい仏教画(チベットの曼荼羅と上座部仏教系のチャンポン?)の写真(?)がありましたので、載せておきます。この写真に感動したら、同じものが新発売のCD『GOUNN』に入っているのでぜひ買って、我らが国民的アイドルを応援しようではありませんか!??

 

 

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