接遇セミナー第6回

12月6日金曜日 ラポール株式会社の福岡先生をお迎えして第6回接遇セミナーを開催しました。

先生に来ていただいて、約1年となります。1年前を振り返り、スタッフの意識の変化そして、その結果として、行動の変化にも

つながっていると実感しました。例えばスタッフ一人の1年前との比較の話では、挨拶について、1年前は笑顔で挨拶としていたのが

今現在は相手の状態を気遣って、天気や気温の話から始めているとあり、知らず知らずのうちに身に付いているところが素晴らしいと感じました。

接遇5原則  挨拶 態度 表情 身だしなみ 言葉遣い を一通り学んだ後、実際の現場での実習となりました。

患者さんの立場でのロールプリイングで気づかされた事がとても多く 有意義な時間でした。相手の立場に立つ事はそれぞれが意識している私達ですが、

実際に患者様の目線でみることの大切さを実感しました。

待合室も写真のようにこざっぱりとしました。

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方便を究竟と為す その十三

ほんものの奇跡は よい因果応報の果て

奇跡じゃなくて自分の中から みちびく 未知の力

(ももいろクローバーZ 『GOUNN』より)

 

秋のある日、理事会が始まるのを待っていると、大川医師会長がやっていらして、終わったら話があるので待っていて下さいということでした。ああそうか!また例の「国民的アイドル」の話を会報にどんどん書いて下さいというのだなと思っていたら、豈図らんや! 来年の6月に医師会主催で開催される健康フォーラムで、今回は在宅医療の話題を取り上げるから、ついては社会学者の上野千鶴子氏のご講演の前に、当地区の在宅医療資源について調べて報告すべし!とのことでした。いやーまいった、仕事の話だ!ただでさえ医療資源が乏しい当地区で、しかも上野先生のご講演のテーマが『在宅ひとり死は可能か?』だとー!? いかなる悪しき因果応報の果てにこの仕儀と相成ったものか? もしかすると前回取り上げた「わたしたち 泣いている人に 何が出来るだろう」の「泣いている人」って自分のことでは?と再び頭を抱えてしまいました。

 

仕方がないので急遽ネットや書店でごっそり関係図書を買い込んで休日はお勉強開始。PCの画面ばかりみていたせいか、オメメは真っ赤に充血。まだ半年以上もあるのに、今から準備すんのか?と家族はビックリですが、「敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず」で、己の知識が空っぽなのはよくわかっていますから、とりあえず今後のメドを立てねばといったところでした。まず、上野先生と執筆当時日本在宅ホスピス協会会長だった小笠原文雄先生との共著であり最新作の『上野千鶴子が聞く 小笠原先生、一人で家で死ねますか?』(朝日新聞出版)を拝読。知らないことばかり出て来るし、当地区ではホスピスのホの字もないのになあと嘆息することしきり。しかし救いはあった!実は、小笠原先生は最初からバリバリの在宅医療推進者として開業された訳ではなく、開業当初はむしろ腰が引けていたといいます。おお!私たちとそう変わらない! ところが、奥さんにはもっとしっかりかせぐために往診しろといわれ、看護師にはもっとまじめにやれと尻をたたかれて、やむなく在宅を始めましたという話が載っていて、思わずホッコリしました。明日の茂原長生地区にも希望の光がある! 明日の我々は今日の小笠原先生の可能性ありだ! その後は当たるを幸いに、目についた書籍を手当たり次第めくっていたところ、ちょっと変わった人の著書に出会いました。

 

その本は『幸せな旅立ちを約束します 看取り士』(コスモ21)という本で、『おくりびと』みたいな響きだが、そんな資格があんのか?という興味と、カバーの表紙にある著者のお顔の写真が何となく印象深いので買って読んでみました。キャリア・ウーマンだった柴田久美子さんが、様々な厳しい体験を経て、病院のない人口600人の離島で看取りの家『なごみの里』を設立。入居者本人の望む自然死で、その方が亡くなる時は抱きしめて看取る実践をされてきたとのことです。最近では米子で在宅支援活動を展開し、終末期介護のモデル作りを目指すとともに、全国に「死の文化」を伝えるため講演活動して回っているのだそうです。『看取り士』というのは彼女が考えたもので、ホームページでみますと、ヘルパー2級の資格をもち、彼女の考えた2週間の研修コース修了者に与えられるようです。ですから介護士やヘルパーなどの国家資格ではないのです。さらには各家庭に出向いて看取りを行う『エンゼルチーム』というボランティア活動(もちろん死亡確認は医師が実施するのでしょうが)を行っているそうです。一億総ヘルパー時代に突入する今日、介護士や看護師が不足する当地区でも、彼女の活動は一つのあり得るモデルとなるかもしれません。『なごみの里』での介護職員の給与は島根での最低賃金(ナント!月12万前後)同然!とのことですが、あまりやめて行く人はいないそうで、アルバイトなどしながらがんばっていらっしゃるようです。同じことは前々回(当HP未投稿)で取り上げた、ドイツで「ルドルフ・シュタイナーの人智学」に基づく高齢者介護施設を運営されているザビーン・リンガーさんもおっしゃっていて、仕事の内容や理念に納得してその職場で働き始めた人は、仕事がきつく、給与が低くてもあまりやめないそうです。介護や在宅医療の話題が、施設の数や国家予算、高齢者の急増、介護士や看護師の不足など、「量」の問題であることが多いのですが、もしかすると、このような「介護(ケア)の本質」という意味での「質」、ケアすることの意味・意義の視点から切り込んでいくと、違う展開がひらけてくるかもしれないと思いました。

 

見開き1ページを超えたら誰もそんな長い文章は読まないと家族がいいますので、まだまだ書くべきことがワンサとありそうなのですが、そろそろ今回のまとめです。柴田さんはどちらかといえば、お国柄か神道系だそうですが、宗教家というわけではなく、どの宗教にも敬意を払っていらっしゃるそうです。その柴田さんが亡くなっていく方を抱きしめていると、その方から「魂」のエネルギーが自分に伝わってくることを感じると言います。

『・・・人間は両親から三つのものをいただいて生まれてきます。「身体」

「良い心」「魂」の三つです。「身体」は死という変化で朽ちてしまいます

が「良い心」と「魂」は子や孫に受け継がれていくと思います。日々、私

たちは暮らしの中で喜びや愛を積み重ねていますが、自分の魂にもそれら

は蓄えられています。その魂が最後に、愛する人に受け渡されるのです。

看取る人が旅立つ人を抱いて身体に触れて送った時に、その人の「良い心」

と「魂」が看取る人に受け継がれていくのです。人は皆、最後に愛や喜

び、生きる力を受け渡すためにうまれてきたのですから。』(前掲書より)

 

スーフィーの道を紹介したルシャッド・フィールドの小説『ラスト・バリア ースーフィーの教えー』(角川書店)に、似たような話があるのを思い出しました。

 

『・・・誰かが真の知恵に出会った時は必ず、ある種のエネルギーが放出

され、地球生命維持の壮大なプロセスのために利用される。普通、このエ

ネルギーは危機的な状況の一瞬、特に死の瞬間にのみ、十分な量が放出さ

れる。しかし今、地球が進化をし続けるためには、瞬間瞬間に死に、再生

し、意識的に生きて意識的に死ぬことを我々が学ばなければならないとこ

ろまで来ている。・・・』

 

死の瞬間、なにか「生命を慈しむ」大きなエネルギーが亡くなっていく方からあとに残される者に受け継がれるらしいのです。ではもし、亡くなって行く方が恐怖、絶望、悲嘆、混乱の中に置かれたらどうなるのか。おそらくそのエネルギーの流れにはブロックが生じるでしょう。だからそのエネルギーのあるべき流れをあるがままにあらしめることが大切であり、それこそ在宅医療が目指すところではなかろうか。フムフム成る程。それがお天道様の道であり、母なる地球と我々自身を助けることになるのだ。おお!素晴らしい!! 国家予算節約目的の在宅医療推進にはゲンナリだが、そういうことならやりがいもあろうというものだ!唯物論の牙城ともいうべき医療の分野が、この「未知の力(エネルギー)」に敬意を払う時、在宅医療に「ほんとうの奇跡」が起こること間違いなしだ! なんだか一人で盛り上がっていますが・・・。ちなみに柴田さんは自宅での死というものにはこだわってはいないようで、しあわせな死は、「死にたいする夢」(筆者注:こういう死に方をしたいという「希望」ということでしょうか?)があって、「手を握り抱きしめられて」見送ってくれる人がいて、それを「自分が決められる」ことで実現できると述べています。確かにそういう条件が満たされるのであれば、安心のために死ぬ場所は「自宅」である必要はなく、良いスタッフや環境が整っていれば、病院の病室や施設で亡くなってもいい。そうか!ではプロジェクトMCZ(詳細は「その十二」参照のこと)では「在宅」とは、亡くなって行く方の魂の安らげる場所、魂の「ホーム」を意味することにしよう! つまり、Zaitakuの頭文字『Z』(キターっ!!)には以前「不生不死、無限のイノチ」の意味があると書きましたが、「魂のふるさと」でもあった訳です。よっしゃあーっ!! ・・・・・どうやら話がまとまりました。

 

 

追記:恒例の写真を忘れていましたが、今回も素敵な仏教画(まさか写真?)がありましたので載せておきます。「桃色四葉Z菩薩」という女尊で、5面10臂(顔が5つに手が10本)のようです。「笑顔と歌声」で世界に光明をもたらす役割を持つそうで、光る棒を振りながら「ウリャ・オイ」とマントラを繰り返すと幸せになること請け合いだそうです。今年のNHK紅白歌合戦会場にも「楽天」という天からの“神の子”「マー君」といっしょにご降臨との話ですのでお見逃しなく!?

 

(この文章は、平成25年12月号の医師会報に掲載予定の原稿を、医師会事務局の許可を得て一部改変して載せています。)

 

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☆忘年会☆


12月7日、安藤医院の忘年会。

そう、私達「AND7」の記念すべきお披露目の日でした。

※AND7とは、安藤医院スタッフ7人衆の略であります(笑)

毎年恒例の、スタッフ一同の出し物。

今年は、衣装にダンスにすべて、ベテラン看護師の提案でスタート!

院長が夢中になっているももクロに対抗すべく、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」に決定。

まずは、衣装作りからスタート。

この共同作業から、思い出す青春時代。記憶も愚かになっている程、数十年前の話。くわばらくわばら(笑)

作業を進めるにつれて、気分はアイドル?!

互いに誉めたり、笑ったり。

 

さて、この衣装は何で出来ていると思いますか。

何と・・・

上着のベストは紙袋なのです!

それぞれ、担当カラー(色)を決め、折り紙などでデコレーション。

スカートはビニール紐で、ハワイアンチックに。

(この作業にかなりの時間を費やしました)

時間配分を誤ってしまい、気づけばダンスの時間が足りない事態に〜!

でも、そこはど根性。限られた時間に、踊る!踊る!そしてまた踊る!

本番できちんと踊れるか不安もありつつ、当日を迎えました。

 

そして、

手作り衣装を装い、ミュージックスタート!

大盛況?!でアンコールもあり、連続で2度踊りました。

体力も限界。大御所ナースの息は、途切れ途切れ・・・

「でも、好きな踊りはやめられな〜い!」

「来年もやりま〜す!」

の言葉で、私達のショーは幕を閉じました。

 

最高の笑顔&美味しいお食事とお酒で、とても楽しい時間が過ごせました。

一年間、元気に過ごせた事に感謝し、来年も頑張りますのでよろしくお願いします。

 

スタッフ一同

※AND7ですが、お呼びがかかれば踊りに行っちゃいま〜す(笑)

 

 

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生活習慣病セミナー 

12月7日 土曜日

第2回目の生活習慣病セミナー 開催しました。

今回の目的は中間報告と評価 11月の第1回にたてた目標に向けて

1ヶ月間頑張った成果、評価報告と次の1ヶ月に向けての新たな取り組みについて

それぞれ参加者に考えていただきました。

1ヶ月の取り組みでどの参加者も運動の継続の大切さを実感されていました。

後半はその運動療法について、中田先生からご指導いただきました。

具体的には無理せず続けられる効果的な運動療法として、

インターバル速歩をご紹介いただきました。散歩するときと同じ暗いの速度で3分歩き

次にきついと感じる程度の速度を3分間行う。これを交互に繰り返すです。

実際に3クール取り組んでいただきました。少し汗ばんでいらっしゃった方もありました。

2ヶ月継続することでどんな成果でているか楽しみです。

以下 参加者の感想です。

*中間報告は大事だと思いました。運動も明日から教わったようにやっていこうと思います。

*グループの中で一緒にできた事よかったです。

皆さんの話も聞きながら、自分もやりたい、なりたいと思いました。

*みなさん頑張っていらっしゃって、刺激を受けました。残り1ヶ月頑張って歩きます。

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方便を究竟と為す その十二

(以下の文章は平成25年12月発行予定の医師会報に投稿したものを、医師会事務局の許可を得て、一部改変して掲載しています。)

 

『わたしたち 泣いている人に 何が出来るだろう

それは 力いっぱい 歌って踊ること』

(ももいろクローバーZ(以下MCZ)「Z伝説 終わりなき革命」より)

 

千葉県医師会が在宅医療や介護関連の活動に力をいれているので、会合にいく度に「何か取り組んで下さい!!!」と言われるものですから、強迫神経症のような状態になり、さてどうしたものかと頭を抱えていると、我らが国民的アイドルの歌の中からこのフレーズが浮かんでくるのでした。ミトラ教の研究者である東條真人氏によれば、イスラムのスーフィーたちが自分たちの神秘思想が“正統的”なイスラムの教えと矛盾しないことを示すために、コーランの一節を引用することを「アンカーリング」というのだそうです。スーフィーたちの神への愛や神との神秘的合一の思想、歌や踊りに寛容な態度は(彼らは「セマー」と呼ばれる音楽、舞踏、詠唱からなる儀式をよく行います。「歌って踊る」ことで世界を救うということからすると、MCZは禅者であるばかりでなくスーフィーでもあったのか!と今さらながら気づきましたが・・・)、ともすれば“正統派”のムスリムたちからは異端視されかねず、実際に何人もの人々が命を落としたそうです。私の場合も、MCZが世界を救うと信じているので、その証拠を歌詞の中に探して「アンカーリング」しているようなものかもしれません。

 

さて、MCZの皆さんは「笑顔と歌声で世界を照らし出す」ことに今日も励んでいる訳ですが、では私たちに在宅医療や介護の現場で何ができるのか。再び頭を抱えて悩んでいると、いくつかの顔と言葉が浮かんできました。最初は、マザー・テレサです。彼女によれば、人が死ぬときはとても大事な瞬間であり、天国に行くにはそのとき「清らかな心」でいることが大切なのだそうです。路上で倒れた貧しい人々を、せめて死ぬときは人間らしく死なせてあげたいと、彼女の施設に収容して看取っていったことは有名です。マザーのいた環境とはかなりかけ離れてはいますが、我々にあてはめれば、苦しむ相手は在宅で死にたくても死ねない患者さんであり、患者さんが最期を迎える場所として最もふさわしいのは、住み慣れた自宅に違いないという思いが続きます。しかし、これは感情論として理解できても、いまひとつ根拠がはっきりしない感じがします。マザーもあまり詳しい説明はしてくれていません。なぜ人は安らかな死を迎える必要があるのでしょうか。最期まで病院で病気と戦って、死ぬべきではないのでしょうか。死ぬ瞬間はどのように重要で、「清らかな心」とは何を意味するのでしょうか?

 

さらに頭を抱えていると今度はダライ・ラマ14世の顔が浮かんできました。チベット仏教は人の死後世界と輪廻転生をはっきり説いていますし、有名な「チベット死者の書(バルド・トドル)」では死後に人が経験する「バルド(中有)」という世界が詳しく述べられていることで有名です。その詳細は文庫版で翻訳書が簡単に手に入りますし、解説書も多いので、直接それらにあたられることをお勧めしますが、要旨をまとめると次のようです。死の直後から再生までの約49日間に死者が経験する「バルド」は、時間的に「死の瞬間のバルド(死後約3日間)」「存在本来の姿のバルド」「再生に向かう迷いの状態のバルド」の3段階を経るのですが、第1、第2の「バルド」で意識に出現する「光明(本来の自己、仏性、純粋なあるいは不滅の意識)」に気づくことが出来た場合、あるいはそれを逃しても次いで現れてくる第3の「バルド」のめくるめくイメージの世界が幻影にすぎないことに気づくことが出来れば、人は解脱することができるのですが、それを逃すと再生への道を進んでいくのだそうです。生前の修行で悟れなかった者が、死という精神的にギリギリの状態で解脱を果たそうとする訳で、その瞬間に死者が精神的混乱にあることをよしとしないのです。ダライ・ラマ法王は、その著作の中で「死ぬ瞬間」の重要性を、繰り返し述べています。

 

『・・・チベット仏教は、死ぬ直前の瞬間が非常に大切だと教えています。なぜならそれが死んでからつぎに生まれ変わるまでの「バルド」という期間のためにできる最期の準備のチャンスだからです。・・・この最期の瞬間を平静に迎えられるように準備をする必要があります。そうすることで、(仮に「バルド」の期間に悟れなかったとしても(筆者注))よい条件のもとに生まれ変わることができるでしょう。死ぬ直前の瞬間は、わたしたちがつぎに生まれ変わる先のキーを手にする瞬間ですから、非常に重要なのです。』

(「ダライ・ラマ 珠玉の言葉108」 ランダムハウスジャパン)

『・・・貴方が仏教を信仰しているか、その他の宗教かは問わない。死に際しては、心の平安こそが最も重要である。個々人は死の瞬間に、決して怒りや憎しみの感情を抱いてはならない。』

(「空と縁起 人間はひとりで生きられない」 同朋舎)

 

そうか、死ぬ瞬間はチベット仏教的には重要なのはわかった。しかし『チベット死者の書』に描写される「バルド」の世界は、チベットや仏教(特にチベット密教)の文化になじみがないとなかなか、ピンとこないな・・・。四たび頭を抱えていると、ついにOshoラジニーシの登場です。この人の手にかかると、古いチベットの枕経の世界が、現代の精神世界に通用する言葉として、鮮烈なインパクトを放ちながら読む者の心に突き刺さってきます。『OSHOダルシャン日本語版vol.4 (市民出版社)』よりいくつか「バルド」を解説した言葉を引用してみます。Oshoも、人は「意識的に」死を迎えるべきで、そうすることによって「バルド」の期間が、自分が肉体や心をはるかに超えた純粋な意識、知覚であることに気づき、輪廻転生の世界を脱却して覚醒(永遠の生、不滅の意識)に至ることができる大きなチャンスになる。そしてそのためには普段から(これは彼の持論ですが)、夢遊病者のように条件反射的に、無意識に生を送るのではなく、人生の一瞬一瞬を意識的に、喜びとともに強烈に生きる努力(一種の修行)をしなさいというのです。

 

『・・・死を生の絶頂として、自然な現象として受け入れなさい。それによって終わることは何もない。意識を保ち、起こっていることを見ていなさい―肉体がだんだんと自分から離れていくようすを、マインドが剥がれ落ち、バラバラになっていくさまを、あたかも鏡が落ちて粉々に砕けていくように、自分の感情、自分の心情、気分が・・・・自分の生を構成していたものすべてが、消えて行く様子を見つめていなさい・・・・(この「見つめているもの(観照者)」こそ本来の我々である訳です。(筆者注))』

(チベットの死の瞑想「バルド」より)

 

これはまるでコーランにおける終末の日の描写のようですね。あるいはまた・・・

 

『・・・死はあなたを この世の あらゆる区別を超えたところへ 人生の あらゆる愚かしいゲームを 超えたところへ 連れて行く だが 人びとはその人たちを助けずに その美しい瞬間を 壊してしまう 死は 人の一生における もっとも貴重なものであるのに たとえ彼が 百年生きたとしても これが もっとも貴重な瞬間だ・・・・』

(祝祭の瞬間 —大いなる死−より)

 

死に行く人を思いやりのない言葉で絶望させたり、怒り・悲しみ・憎しみで混乱させたり、不必要な延命治療で苦しめたりすることは、そのような貴重な瞬間を台無しにしてしまうのではないか。医者にとっても耳に痛い話が続きます。

 

『・・・・医者はその人に偽りの慰めを与える。その瞬間が、死というものを完全に自覚し、―純粋に余すところなく自覚しなくてはならない、純粋なる意識が体験される瞬間であることも知らずに。その瞬間は大いなる勝利の瞬間になる。今やその人にとって死は存在せず、永遠の生だけが存在する。・・・』

(祝祭の瞬間 –大いなる死—より)

 

そうか・・・・・・。「バルド」を信じるかどうかは人それぞれですが、終末期の人が安らかに死を迎え、最期の一瞬まで意識的に生き、死んでいける環境を整えることが、個人ひいては人類の「霊的進化」を助けることにつながるという思想がある訳です。・・・という訳で、最後になんとなく頭に浮かんできた考えはこんなことでした。「無条件にすべての患者さんの在宅での長期の療養を支えられる力は今の我々にないにしても、もうすぐお迎えが近い方々やその家族が、最も安心して最期を迎えられる場所として自宅を選ばれるのであれば、そのような短期間住み慣れた自宅で過ごし、静かに安心して最期を迎えさせてあげることぐらいはやれるのではないか?」ということです。もちろんいろいろな状況がありますから、話はこんなに単純でないことはよく承知していますが・・・・。おめでたいことに、最後の最後になってこのプロジェクト名まで浮かんで来ました。なんと!プロジェクトMCZ(案)です。(誤解ないようにお願いしますが、これはかの国民的アイドルMCZとは何の関係もありません。が入ってますから。)

 

(M) もばらしちょうせいぐんで

(M) もうそろそろお迎えが近いひとがいたら

(C) チョー安心して最期を迎えられるよう

(Z) ざいたくでの看取りをすすめるプロジェクト

 

「なんだこりゃ!?」という声が聞こえてきそうです。

 

注:今回は話しがやたら長いので(こんなに長い文章は誰も読まないといつも家族が言うのですが)、タンカやアラビア書道の写真はおやすみです。かわりに珍しい仏教画(チベットの曼荼羅と上座部仏教系のチャンポン?)の写真(?)がありましたので、載せておきます。この写真に感動したら、同じものが新発売のCD『GOUNN』に入っているのでぜひ買って、我らが国民的アイドルを応援しようではありませんか!??

 

 

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