方便を究竟と為す その参

 

前回予告を書いた以上は今回も書かねばなーと思いつつ、しかも筆がすべって、ももクロ(「ももいろクローバーZ」という女の子5人組アイドルグループの略称)とタンカの関連?いったいそんな文章書けるのか、書くのはいいが一体読者がいるのかと思ったり、今回は他に報告も書かねばならんからパスしようかなどと迷いつつ、またしても本屋をひやかしていたら、今度は「一遍上人絵伝」が目にとまり、思いだした言葉がありました。一遍上人が念仏を広めようと、念仏を書いた念仏札を人々に渡していたときのことです。ある老僧から、「信心が起こらないので受け取りたくない」と言われて、ショックを受け悩んでいたときに、目の前に山伏として現れた熊野権現からの御神託です。「融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめられるぞ。御房のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし」というのです。わかりました。阿弥陀様の御光業のためなら仕方ありません。書きましょう。ということで、ももクロの歌詞同様意味不明な点もありますが、おつきあい下さい。

 

先日、ももクロの研究のために(?)インターネットをみていたら、インドネシア在住で、いままでアイドルなどというものにまったく無縁だったのに、ももクロがChai Maxxという歌を歌いながら激しく踊る映像をたまたまみていたら、あっというまに魂を奪われ、たちまち「モノノフ(ももクロのファンのこと)」になってしまったというのです。そして何故だろうとこの方なりの分析を試みているのですが、そのダンスの振り付けが女性アイドルらしからぬ異様なものであり、それを踊る困難を克服しようと奮闘しているメンバーの姿勢や、歌詞にある「びゅん びゅん 立ち向かう」という勇ましいフレーズなどから、常に挑戦者として前進する姿勢を感じて引きつけられるのではないかというような内容だったと思います。何といってもこのChai Maxxはプロレスのリング上で、メンバー全員が顔面ペインテイングのうえ、毒霧まで吹いて歌ったこともあるシロモノだから、かわいいアイドルの歌などというものからはほど遠いのは想像できるでしょう。彼女たち自身ライブのことを「試合」とか「大会」と呼んでいるようで、アイドルというよりもアスリートと呼んだほうがいいかもしれません。彼女たちの魅力は何かということは、いろいろ面白い議論があってここで一つ一つご紹介できませんが、理屈をこねるよりもライブ映像をみるのが一番だと思います。あなたがもし、お祭りが嫌いでなければ、自分もあの祝祭的空間に属してみたいと感じるにちがいないと思います。コメデイアンの山里亮太氏(南海キャンデイーズ)と、作詞・作曲家の前山田健一氏は、雑誌Quick Japanの対談の中で、ももクロのライブは、全国を巡りながら行く先々で人々を幸せな気分にするという点で、かつて日本の中世で大流行した一遍上人の踊り念仏に似ていると述べていますが、良い例えだと思います。ものすごいコール・アンド・レスポンスのエネルギーの渦とその中心にいるシャーマンあるいは巫女的存在ともいえるメンバーのパフォーマンスを見れば、岡本太郎氏なら「縄文の世界だ!」と叫ぶに違いなく、天岩戸に隠れた天照大神がうっかり顔を出したのもこのようなエネルギーあればこそと感じられるでしょう。実際ももクロの歌には「天手力男(アメノタヂカラオ、天照大神が隠れたときに天岩戸をこじ開けた神様)」という歌があり、その中にも「己の敵は己自身だ いつか己を越えて行け」などとおよそアイドルらしからぬフレーズが出てきます。多分今年のNHK紅白歌合戦には出場するでしょうから、ご覧になると良いでしょう。うつ病や自殺者が蔓延するいまの日本に最も必要なのは、核エネルギーでも化石燃料でもなく、縄文時代の日本人が持っていたという、このたぎるようなエネルギーを引き出すことではないかという気がします。戦場カメラマンでお茶の間でも人気の渡部陽一氏は、「試練の七番勝負」という対談の中で、ももクロのメンバーに自分が撮ってきた写真を示しながら、悲惨な戦場の町にも人々の営みがあり、その心を癒すため歌い続ける「アイドル」達がいるということを、だから「世界はアイドルを、ももクロを求めています」という言葉を伝え、それを聞いたももクロのメンバーが自分達の役割を自覚して号泣するという場面がありました。年間3万人を超える自殺者を出す日本は静かな戦場だともいわれており、鉄道路線での「人身事故」は日常茶飯事で、我々の感覚は麻痺しています。歌と笑顔で世界を照らそう、老若男女を問わず皆を「モノノフ」にして幸せな気分になってもらおう、というももクロのコンセプトには一介の町医者としても大いにひきつけられ、応援しようと思うのです。

 

チベットの仏画も、ももクロのライブと同様、エネルギーに満ち溢れています。まず色彩の鮮やかさが目を引きます。日本の仏画の影響のためか、私も着色の際についおとなしい色を使いたくなりますが、チベットのタンカはどちらかというと原色が多くてギンギラギンです。ついで背景に天地、太陽と月、雲、川、草木や花、動物など自然が多く描かれているのも特徴です。先生に描きかけのタンカをみせると、無背景なら背景を、背景が描いてあれば草や木を追加して描くように言われますし、陰陽の象徴である太陽と月も必ず描くように言われます。そして特に密教の尊格に見られるダイナミックなポーズ。今回のタンカなども足を高く持ち上げて、インドのシバ神などに見られる宇宙的エネルギーの運動の表現、いわゆるコズミック・ダンスを踊っているようなポーズです。ももクロの「ピンキー・ジョーンズ」という歌では、途中までの女子高生がふざけてはしゃいでいるような、楽しそうでかつ訳のわからないダンスが次第にテンポ・アップして、ついにステージ中央でメンバー揃ってこのタンカの図像のような振りで激しく踊りながら、「逆境 こそが チャンス だぜぃ 風も嵐も さあ来い!さあ来い!体は張りまくり」と聞いている者の心に勇気を与えるわけです。チベット仏教にも、日本の神道と似たボン教という古いシャーマニズム的な宗教が習合しているそうですから、またしても誰かが「ももクロは古代縄文のエネルギーを日本、いやいや、世界に蘇らせるために現れたのだーっ」とでも言いそうです。タンカを描くときは瞳を最後にいれます。また裏側に必ず「オーム・アー・フーム」という真言を書くように言われます。これがなければタンカではなくただの絵だそうです。そして最後の最後にラマ僧が祈ってココロをいれますが、そうなったら本当のホトケ様として絵を扱わねばならず、その前で下着でごろ寝とはいかないようです。この真言の意味についてはまたいつか触れたいと思います。

 

今回のタンカはクルックラーという女尊で、ターラー菩薩というチベットの守護尊の憤怒した姿との説もあります。阿弥陀如来の種字であるフリーヒ(日本ではキリクと呼ばれる梵字)から生まれた赤い体を持つ尊格です。ちなみにチベット仏教では阿弥陀如来の体の色も赤であり、タンカではクルックラーの図像の上方に阿弥陀如来が描かれることが多いようです。つまり阿弥陀様と縁が深い女尊であるわけです。クルックラーは後期密教で盛んに信仰された尊格だそうで、弘法大師によって中期密教までが伝わった日本ではほとんど知られていません。教室に遊びにくるラマ僧によると鎌倉の鶴岡八幡のあたりでその像をみたとのことですので今度探しにいこうと思いますが。ところでこの女尊の意味ですが、弓矢をひきしぼる姿から連想されるように善男善女のレベルでは西洋のキューピットと同様、思いをよせる人との愛が成就することを願ってこの尊格に祈るようですが、より深い意味は別にあるようです。最後にそれを、フィリップ・ローソン著、森雅秀+森喜子訳、「聖なるチベット」(平凡社)より引用して、今回は終わりたいと思います。この本の中にはクルックラーを描いたチベットの古いタンカの貴重な写真が載っており、大変な迫力で、私がタンカというものにココロ奪われたのも、この写真があったからかも知れません。「火炎の光背を持つ赤いダーキニー、クルックラーは、女性の内的な智慧のエネルギーを象徴し、男性の瞑想行者のもつエネルギーを補うものである。行者はこの女性エネルギーを凝集し、精神を集中させるのであるが、最初の段階では「エネルギー保持者」としてイニシエーションを受けた生身の女性を必要とする。クルックラーの弓と花の矢は方便と般若の結合を、また愛の知恵を示す。日常生活においては、エネルギーは各個人の身体、生命、世界の創造に拡散してしまう。このエネルギーを集中させ、凝縮し、赤色に輝かせることによって、このダーキニーは自我を超越し、自我を現す肉体を踏みつけている。頭冠には五仏を表す五つの髑髏をつける。微細身のなかを上昇しながら、各段階でマンダラの拡大と収斂を繰り返すことによって、無我へと到達するまで彼女は変容していく。」

 

追記:どうなるかと思いましたが、意外とタンカ、ももクロ、一遍上人、阿弥陀如来と関連づけて書けたので、我ながら驚きです。やはり阿弥陀様のお導きがあったのでしょうか。ももクロも実は阿弥陀様の手の者に違いありません。リーダーの百田夏菜子さんのコスチュームも「赤」ですから。今回も筆が滑りすぎてしまいましたが、以上ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

(この文章は平成24年の医師会報に既に掲載されたものを医師会事務局の許可を得て、一部改変して載せています。)