方便を究竟と為す その六

いい年していつまでもアイドルのことばかり書くのはやめようと考えていましたが、平成24年の忘年理事会で生ビールを飲んで朦朧としていると、わざわざ医師会長がそばにいらして何をおっしゃるかと思いきや、「もっと『ももクロ』のことを書いて下さい!」とのことですので、「なにーっ!?」と思いつつも医師会長命令なのでやむを得ず続けることにしました。ん? ひょっとすると『ダライ・ラマ法王』の聞き間違いだったかもしれませんが・・・。まあ、どちらもいまやスーパーアイドルなのだからかまわないでしょう。

 

大晦日の紅白では、かつてメンバーだった仲間に対して、いかんなくその「友愛」の精神を発揮し(その意味と詳細はネットで「ももクロ紅白」などで参照のこと、ただしネット上はモノノフの感激のコメントで大炎上しているので注意)、年が明けたら「NHK公認アイドル」どころかNHKから「国民的アイドル」のお墨付きが出てしまった『ももクロ』ですが、今後は国立競技場での大きなライブを目標にすることや、オジイチャン・オバアチャン大会をしたり(まさかの60禁、あるいは孫同伴が必要では)と、老若男女問わず少しでも多くの人々を笑顔にしたいというようなことをNHKの朝の番組で話していました。そんな彼女たちが実はかつて白子町に来たことがあるといったら驚かれるかもしれません。「波乗り道路」が南白亀川を越えて片貝方向へ少し行ったところで、マンションにはさまれて南欧風の建物がありますが、ここはグラビア写真の撮影などに使われるスタジオらしく、2年前に『ももクロ』も自身のライブ「極楽門からこんにちは」の会場で流すビデオの撮影に使用したようです。撮影後はナント皆で白子の海岸で花火までやっていたらしく、ライブのメイキング・ビデオを見て気がついたのです。なあーんだ、そうだったのか!白子町は既に2年前から『ももクロ』の聖地、エネルギースポットだったんだ。俺はそこで医者やってたんだから、道理で引き込まれてしまうわけだ。アーッハッハッハッハッハッハッ、というわけです。ん? しかし、何だかこのシチュエーションはどこかで読んだことがあるが・・・。

 

探究者が真実を知った時に、つまり自分がさんざん探しまわってきた真理が実は最初から自分自身の中にあったことに気がついて、あまりの滑稽さに大笑いをするというシチュエーションは、精神世界の反逆児とでも呼ぶべきoshoラジニーシが好んで講演の中で語ったことです。笑いについて彼が述べていることを少し長くなりますが引用してみましょう。

 

「私自身の理解は、笑いよりも貴重なものは何もない、ということだ。笑いは祈りの最も近くへあなたを連れてくる。実際あなたがトータルである時は、唯一笑いだけがあなたの中に残る。・・・・・しかし、本当に心からの大笑いをするときは、あなたの存在のすべての部分―肉体的、精神的、スピリチュアル―それらはすべて、ただ一つの旋律の中で振動する。・・・・笑いはくつろぐ。そしてくつろぐことがスピリチュアルだ。笑いはあなたを大地に連れて来る。・・・笑いは、あるがままの現実へあなたを連れてくる。世界は神の戯れ、宇宙的冗談だ。それを宇宙的冗談として理解しない限り、究極の神秘は決して理解できないだろう。」(市民出版社「アティーシャの知恵の書」より)

 

大笑いしているときは私たちのエゴは一時的に活動を停止していますので、お天道様とつながりやすくなるようです。ワライ(笑い)はハライ(祓い)に通ずるという人もいますし、医療の世界でもかなり前からノーマン・カズンズやパッチ・アダムスなど「笑い」が持つ治癒力に注目して活動されてきた方々がいます。私も思うところあって、平成25年の我が診療所のテーマは「笑い」にしました。本人はかなり「笑い」から遠いところにいますが、一年間かけていろいろ考えてみようと思っています。

 

今回の作品はタンカでもアラビア書道でもなく、ナントこの年末から正月にかけて、今年のテーマにちなんで私が考案した、我が診療所の(裏の?ただし表はまだ未作成)ロゴ・マークです。文房具店で素敵な色紙を見つけたので描いてみました。緑・ピンク・黄・紫の4色の四つ葉のクローバーの中心に日本の仙厓和尚の禅画「指月布袋図」からコピーした布袋図を赤で描いたものです。布袋さんは「笑うブッダ」として知られた中国の禅師で、言わずと知れた日本の七福神の一人ですが、彼が童子と一緒に月を指さして笑っているところです。ちなみに紅白歌合戦で我が国民的アイドルが歌ったメドレーの前半部「サラバ、愛しき悲しみたちよ」の楽曲を提供したのも「ホテイ」という有名な日本人ギタリストでした。4つの葉の中の「生命(Life)・慈愛(Love)・大笑(Laughter)・光明(Light)」はoshoラジニーシの本からの引用で、彼は人は必ずこの順番で(生きて、愛して、笑って、光に気付いて)悟って行くというようなことを述べています。5つの色が何を示しているかは、賢明な読者のみなさんならもうおわかりのことでしょう。最後にまたしてもその国民的アイドルの歌から引用して終わりにします。

・・・・・

小娘のたわごと、と 切り捨てないで

しかめつら なんか 変な顔 笑顔を 見たいから

笑おう 笑おう さあ 笑いましょ こんな時代こそ 笑いましょ

笑おう(ソイヤ ソイヤ) 泣いたら負けだ やけくそ 笑いましょう

・・・・・

(桃黒亭一門「ニッポン笑顔百景」より)

注:『桃黒亭一門』とは『ももクロ』のメンバーのまんま、この歌のときだけ使われるユニット名です。

 

困難な状況に出会ったら、やけくそでもいいからすべてを笑い飛ばしているうちに、悟りへの道が開けるかもしれません。

(この文章は平成25年初めに、
茂原市長生郡医師会の会報に院長が寄稿したものを、医師会事務局の許可を得て一部改変して掲載しています。)

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方便を究竟と為す その参

 

前回予告を書いた以上は今回も書かねばなーと思いつつ、しかも筆がすべって、ももクロ(「ももいろクローバーZ」という女の子5人組アイドルグループの略称)とタンカの関連?いったいそんな文章書けるのか、書くのはいいが一体読者がいるのかと思ったり、今回は他に報告も書かねばならんからパスしようかなどと迷いつつ、またしても本屋をひやかしていたら、今度は「一遍上人絵伝」が目にとまり、思いだした言葉がありました。一遍上人が念仏を広めようと、念仏を書いた念仏札を人々に渡していたときのことです。ある老僧から、「信心が起こらないので受け取りたくない」と言われて、ショックを受け悩んでいたときに、目の前に山伏として現れた熊野権現からの御神託です。「融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめられるぞ。御房のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし」というのです。わかりました。阿弥陀様の御光業のためなら仕方ありません。書きましょう。ということで、ももクロの歌詞同様意味不明な点もありますが、おつきあい下さい。

 

先日、ももクロの研究のために(?)インターネットをみていたら、インドネシア在住で、いままでアイドルなどというものにまったく無縁だったのに、ももクロがChai Maxxという歌を歌いながら激しく踊る映像をたまたまみていたら、あっというまに魂を奪われ、たちまち「モノノフ(ももクロのファンのこと)」になってしまったというのです。そして何故だろうとこの方なりの分析を試みているのですが、そのダンスの振り付けが女性アイドルらしからぬ異様なものであり、それを踊る困難を克服しようと奮闘しているメンバーの姿勢や、歌詞にある「びゅん びゅん 立ち向かう」という勇ましいフレーズなどから、常に挑戦者として前進する姿勢を感じて引きつけられるのではないかというような内容だったと思います。何といってもこのChai Maxxはプロレスのリング上で、メンバー全員が顔面ペインテイングのうえ、毒霧まで吹いて歌ったこともあるシロモノだから、かわいいアイドルの歌などというものからはほど遠いのは想像できるでしょう。彼女たち自身ライブのことを「試合」とか「大会」と呼んでいるようで、アイドルというよりもアスリートと呼んだほうがいいかもしれません。彼女たちの魅力は何かということは、いろいろ面白い議論があってここで一つ一つご紹介できませんが、理屈をこねるよりもライブ映像をみるのが一番だと思います。あなたがもし、お祭りが嫌いでなければ、自分もあの祝祭的空間に属してみたいと感じるにちがいないと思います。コメデイアンの山里亮太氏(南海キャンデイーズ)と、作詞・作曲家の前山田健一氏は、雑誌Quick Japanの対談の中で、ももクロのライブは、全国を巡りながら行く先々で人々を幸せな気分にするという点で、かつて日本の中世で大流行した一遍上人の踊り念仏に似ていると述べていますが、良い例えだと思います。ものすごいコール・アンド・レスポンスのエネルギーの渦とその中心にいるシャーマンあるいは巫女的存在ともいえるメンバーのパフォーマンスを見れば、岡本太郎氏なら「縄文の世界だ!」と叫ぶに違いなく、天岩戸に隠れた天照大神がうっかり顔を出したのもこのようなエネルギーあればこそと感じられるでしょう。実際ももクロの歌には「天手力男(アメノタヂカラオ、天照大神が隠れたときに天岩戸をこじ開けた神様)」という歌があり、その中にも「己の敵は己自身だ いつか己を越えて行け」などとおよそアイドルらしからぬフレーズが出てきます。多分今年のNHK紅白歌合戦には出場するでしょうから、ご覧になると良いでしょう。うつ病や自殺者が蔓延するいまの日本に最も必要なのは、核エネルギーでも化石燃料でもなく、縄文時代の日本人が持っていたという、このたぎるようなエネルギーを引き出すことではないかという気がします。戦場カメラマンでお茶の間でも人気の渡部陽一氏は、「試練の七番勝負」という対談の中で、ももクロのメンバーに自分が撮ってきた写真を示しながら、悲惨な戦場の町にも人々の営みがあり、その心を癒すため歌い続ける「アイドル」達がいるということを、だから「世界はアイドルを、ももクロを求めています」という言葉を伝え、それを聞いたももクロのメンバーが自分達の役割を自覚して号泣するという場面がありました。年間3万人を超える自殺者を出す日本は静かな戦場だともいわれており、鉄道路線での「人身事故」は日常茶飯事で、我々の感覚は麻痺しています。歌と笑顔で世界を照らそう、老若男女を問わず皆を「モノノフ」にして幸せな気分になってもらおう、というももクロのコンセプトには一介の町医者としても大いにひきつけられ、応援しようと思うのです。

 

チベットの仏画も、ももクロのライブと同様、エネルギーに満ち溢れています。まず色彩の鮮やかさが目を引きます。日本の仏画の影響のためか、私も着色の際についおとなしい色を使いたくなりますが、チベットのタンカはどちらかというと原色が多くてギンギラギンです。ついで背景に天地、太陽と月、雲、川、草木や花、動物など自然が多く描かれているのも特徴です。先生に描きかけのタンカをみせると、無背景なら背景を、背景が描いてあれば草や木を追加して描くように言われますし、陰陽の象徴である太陽と月も必ず描くように言われます。そして特に密教の尊格に見られるダイナミックなポーズ。今回のタンカなども足を高く持ち上げて、インドのシバ神などに見られる宇宙的エネルギーの運動の表現、いわゆるコズミック・ダンスを踊っているようなポーズです。ももクロの「ピンキー・ジョーンズ」という歌では、途中までの女子高生がふざけてはしゃいでいるような、楽しそうでかつ訳のわからないダンスが次第にテンポ・アップして、ついにステージ中央でメンバー揃ってこのタンカの図像のような振りで激しく踊りながら、「逆境 こそが チャンス だぜぃ 風も嵐も さあ来い!さあ来い!体は張りまくり」と聞いている者の心に勇気を与えるわけです。チベット仏教にも、日本の神道と似たボン教という古いシャーマニズム的な宗教が習合しているそうですから、またしても誰かが「ももクロは古代縄文のエネルギーを日本、いやいや、世界に蘇らせるために現れたのだーっ」とでも言いそうです。タンカを描くときは瞳を最後にいれます。また裏側に必ず「オーム・アー・フーム」という真言を書くように言われます。これがなければタンカではなくただの絵だそうです。そして最後の最後にラマ僧が祈ってココロをいれますが、そうなったら本当のホトケ様として絵を扱わねばならず、その前で下着でごろ寝とはいかないようです。この真言の意味についてはまたいつか触れたいと思います。

 

今回のタンカはクルックラーという女尊で、ターラー菩薩というチベットの守護尊の憤怒した姿との説もあります。阿弥陀如来の種字であるフリーヒ(日本ではキリクと呼ばれる梵字)から生まれた赤い体を持つ尊格です。ちなみにチベット仏教では阿弥陀如来の体の色も赤であり、タンカではクルックラーの図像の上方に阿弥陀如来が描かれることが多いようです。つまり阿弥陀様と縁が深い女尊であるわけです。クルックラーは後期密教で盛んに信仰された尊格だそうで、弘法大師によって中期密教までが伝わった日本ではほとんど知られていません。教室に遊びにくるラマ僧によると鎌倉の鶴岡八幡のあたりでその像をみたとのことですので今度探しにいこうと思いますが。ところでこの女尊の意味ですが、弓矢をひきしぼる姿から連想されるように善男善女のレベルでは西洋のキューピットと同様、思いをよせる人との愛が成就することを願ってこの尊格に祈るようですが、より深い意味は別にあるようです。最後にそれを、フィリップ・ローソン著、森雅秀+森喜子訳、「聖なるチベット」(平凡社)より引用して、今回は終わりたいと思います。この本の中にはクルックラーを描いたチベットの古いタンカの貴重な写真が載っており、大変な迫力で、私がタンカというものにココロ奪われたのも、この写真があったからかも知れません。「火炎の光背を持つ赤いダーキニー、クルックラーは、女性の内的な智慧のエネルギーを象徴し、男性の瞑想行者のもつエネルギーを補うものである。行者はこの女性エネルギーを凝集し、精神を集中させるのであるが、最初の段階では「エネルギー保持者」としてイニシエーションを受けた生身の女性を必要とする。クルックラーの弓と花の矢は方便と般若の結合を、また愛の知恵を示す。日常生活においては、エネルギーは各個人の身体、生命、世界の創造に拡散してしまう。このエネルギーを集中させ、凝縮し、赤色に輝かせることによって、このダーキニーは自我を超越し、自我を現す肉体を踏みつけている。頭冠には五仏を表す五つの髑髏をつける。微細身のなかを上昇しながら、各段階でマンダラの拡大と収斂を繰り返すことによって、無我へと到達するまで彼女は変容していく。」

 

追記:どうなるかと思いましたが、意外とタンカ、ももクロ、一遍上人、阿弥陀如来と関連づけて書けたので、我ながら驚きです。やはり阿弥陀様のお導きがあったのでしょうか。ももクロも実は阿弥陀様の手の者に違いありません。リーダーの百田夏菜子さんのコスチュームも「赤」ですから。今回も筆が滑りすぎてしまいましたが、以上ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

(この文章は平成24年の医師会報に既に掲載されたものを医師会事務局の許可を得て、一部改変して載せています。)

 

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方便を究竟と為す 弐

(この文章は既に医師会報に投稿したものを、医師会事務局の許可を得て一部改変し掲載しています。)

 

前回の原稿を書いたばかりなのにまた書いたのといわれそうですが、大事な経文からの引用で重大な誤りをみつけましたので、ばちがあたるといけませんので急遽続きを書くことにしました。大日経の三句の法門として有名な「菩提心為因 大悲為根 方便為究竟」を引用しましたが、第一句の「菩提心」の「心」の字が抜けて「菩提為因」と書いてしまいました。お詫びとともに訂正させていただきます。何度も校正・修正の機会があったのに思い込みというのは怖いものだなあと改めて感じます。実はこれ以外にも印刷の段階で、三句の最後「方便為究竟」の「竟」を「境」にしてしまっていたのに気がつき、こちらは事務の松崎さんのご尽力でなんとかなりました。もしかするとこれらのミスは、フロイトがいうところの無意識がなせるものではないかという気がします。つまり、これを「境」(さかい)にゴチャゴチャ理屈をいわないで(あちこち真理を外側の世界に探してココロここにあらずにならないよう)、日々の仕事の中に安心を見いだせ。そうでなければ肝心の「心」がいつまでも抜けているぞとの弘法大師のお沙汰ではないのか?ということです。

 

しばらく仏教から関心が離れていたのですが、ある日本屋を冷やかしていたところ、横山紘一氏の『阿頼耶識の発見』という本がたまたま目にとまりました。ユングにいわせれば、これも共時的な出来事なのでしょうが、パラパラめくっていて、「一人一宇宙」という言葉に惹かれ購入して読んでみました。仏教の唯識思想を大変わかりやすく紹介しており、また、「菩薩として生きよう」という横山氏の世界観には大いに共感するものがありますが、その中で横山氏は、「最近では自分の死と他者の死はまったく次元が違うものであると考えるにいたった」ということを述べておられるので大いに驚きました。その理由をもっと詳しく知りたいと思い、何冊か氏の著書をよんでいるうちに、弘法大師のしかけた網にまたまたひっかかってしまったのです。唯識思想は弘法大師が十住心(簡単にいうと人間の意識の進化を10段階にわける思想で密教が最上位におかれたもの)の6段階目に大乗仏教の初歩レベルとして分類されていますから、「何だお前は。わしがとうの昔にもっと上があるといっているのにどこをうろついているか!」と叱られた気分です。結局はレベル10まで自分でいってみればわかるのであって、理屈をこねていてもだめだということでしょうか。勝手に在家の弟子?と思いこんでいる身としては、阿字観か月輪観でもやろうかと考えましたが、静かに座る時間はなかなか取れないのが実情です。絵を描くことは嫌いではないので、ならばあの世にいくまでにまわりの人々の幸せを願ってタンカ(チベットの仏画)を100枚書こう!と願を立てることにしました。さまざまな尊格のタンカを描くのも三密の修行にあたるし、趣味と実益をかねるし、いいじゃないかと勝手に考えますが、またどこかで痛い目にあいそうな気もします。なぜ仏画、それもチベットのタンカかということはまた稿を改めて書かせてもらおうと思います。

さて、開業して20年近くなると、いい加減同じような生活の繰り返しに少々くたびれてくるのではないでしょうか。地の果ての海辺の診療所は毎日毎日高齢者相手ですので、痛みなどが一旦改善してもまた農作業などで痛めて・・の繰り返しです。ときには消耗してゾンビと戦う映画の主人公になったような気分になり、きりがないなあと天をあおいで嘆息したくなります。なにか自分や職員のみんなをふるいたたせる社訓でも作ろうかと思っていた矢先でした。弘法大師の著作である「吽字義」を解説した本を読んでいたら表題の言葉がとびこんできました。ますます共時的といえそうですが。「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟と為す」というフレーズはどこかで聞いたような言葉だが、と考えていると、思い出したのが次のフレーズです。「時に癒し(いやし)、しばしば和らげ、いつもなぐさめる」でした。これは誰の言葉だっけーっということでインターネットで探すと、なんとヒポクラテスの言葉だそうで、この言葉をモットーに診療に励んでいらっしゃる先生もいらっしゃることもわかりました。遠い昔、母校の医学概論かなにかでこの言葉を聞いた気がします。このあとに「そのいつもできることを我々は一番やろうとしない」といった言葉が続いて、アメリカかどこかの国の医科大の入り口に掲げてあるということだったと思います。病気を治そうとか命を救いたい、病者の苦しみを取ってあげたいという情熱は医師なら誰もがもっているものでしょうが、人間はかならず老いていき、死亡率は100%なのだと忘れがちです。また自分が治していると錯覚しがちですが、人間に自己治癒力がなければ、風邪もなおらないし、縫った傷もくっつかないでしょう。オステオパシーなどのエネルギー医学に携わっていると、本当の意味で癒しがおこるのは治療者が、天というか自然というか神仏でもグレートスピリットでも大日如来でもアッラーでもいいのですが、大いなる生命と同調したときに起こるとされており、「時に」しかおこらないのです。次善として治療者のもつ健常なエネルギー「慈悲(のエネルギー)」が病者の弱ったエネルギーに反応して「しばしば和らげる」事に成功します。しかし最も我々が注意を払うべきは、多くの例で治癒を妨げているのは実は患者さん自身の思考や感情のエネルギーであるように思います。これは日常の診療でもよくみますが、家族との間に問題をかかえた糖尿病はどんどん悪化するし、事故の恐怖やうらみがこもったムチウチも治療の効果がでにくいと思います。またしても誰がいったか忘れましたが(シュバイツァーだったかパスツールだったか?)、医者ができる最も重要なことは患者さんの心の中に、永続して「自分は健康になる」という気持ちを持たせてあげることだと言います。すると、患者さんの心に働きかけることは誰でもできるわけで、医者だろうが、看護師だろうが、薬剤師だろうが事務員だろうが、トイレ掃除のおばさんだろうがです。だから「いつも」あらゆる手練手管(「方便」)を使って「なぐさめる」ことが最重要(「究竟」)でなければならないことになります。賢明な読者のみなさんは、私が我々が日常行っている医療に価値がないといっているのではないとお分かりだと思います。なぜなら患者さんを傷つけない限り、患者さんのことを思ってわれわれが行うすべてのことは「方便」であり「究竟」だと述べているのですから。

というわけで表題の「方便を究竟と為す」の意味を説明してきましたが、タンカのことをふれる時間がなくなってしまいました。次回のお楽しみということにしようと思いますが、絵がないとさびしいので一つのせてもらうことにしました。今回のタンカはクルックラーと呼ばれる女性の尊格を描いたもので、黒い紙に金、銀、赤だけで描いています。次回は同じ尊格ですが、色を用いて描いたタンカをご紹介しながらチベットの仏画(タンカ)にひかれてしまう理由について考えてみたいと思います。最後に次回の予告を兼ねて一言。

 

チベットのタンカとかけて

ももいろクローバーZととく

 

そのココロは・・・・

 

どちらもエネルギーの爆発だ!!

 

まだつづく

安藤五徹

 

 

追記(というかむしろこちらが重要?):

まだ書くのか!といわれそうですがもう少しお付き合いください。「ももクロ」の名前が出てしまったので(これも潜在意識のせい?)、「笑顔と歌声で世界を照らし出」すことを使命に「パフォーマンスに汗を流」しているイチオシアイドルグループの「大きなお友達」の一人として、自分のまわりで「泣いている人になにができるだろう?」と考えるとムラムラと菩提心が湧きあがり、ここで何か発言しておかねばと思いまして筆が滑り続けるわけです。

(「爆発」という言葉を使うとやはり私が敬愛する岡本太郎氏の有名な「芸術は爆発だ!」が思い出されます。岡本太郎氏のパリ留学中の盟友にジョルジュ・バタイユ氏がいますが、今の社会を変革するには「がん細胞のように痛みをともなわず人知れず深く影響を及ぼす」ことが必要だといったそうで、岡本氏も共感したのでしょう、その二人の思いの日本的結実が大阪万博の太陽の塔なのだそうです。確かに万博といえばあの太陽の塔が真っ先に思い出されるではありませんか。だからさしずめこの一連の駄文も岡本太郎&バタイユのあとを次いで・・・というのは不遜ですが、そのような役割があればと考えています。(これはつまり種明かしですね。)

やっと本題ですが、・・・・・・(ここは医師会関係の連絡事項なので省略)・・・・、担当理事としてこの場をかりて会員の皆さんにちょっとお伝えしておこうと思った次第です。

やっと終わり

 

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方便を究竟と為す

(この文章は平成24年の医師会雑誌に既に投稿されたものを医師会のご好意で一部改変し掲載させていただいたものです。今後順次載せていく予定です。)

 

津波で死なずにすんでヤレヤレと思っていたら、陸のほうから別の力が働いて、今回約10年ぶりでうっかり医師会理事を拝命してしまいました。これも神仏(あるいはアッラー?)のお導きとあきらめて、モゾモゾやっていましたら、「何か医師会報に文章を書くように」と事務局からの依頼がありました。昔、理事のときに原稿書きでだいぶ苦労(?)しましたので、何か良い方法はと考えていましたが、私が趣味でアラビア書道教室やチベット仏教の仏画(タンカ)教室に通って作成した作品に、短い駄文を添えて投稿させていただくことにしました。ちなみに表題の「方便を究竟と為す」とは、我がココロの師のひとりである、弘法大師イチオシの大日経は「菩提心為因 大悲為根 方便為究竟」からとったものです。本稿はシリーズ化!?の予定ですので(今は盆前で忙しいし!?)、表題のココロはそのうち書くつもりです。

今回ご紹介するのは馬頭観音像を描いたタンカです。チベットでは観音よりも明王としての性格が強く、馬頭明王として知られているらしいですが、私のタンカの師匠(チベット人)が日本人にあわせて?「バトカンノン」と呼ぶので「馬頭観音」としました。初めて私が描いたタンカですが、なぜこの尊格を最初に選んだかといいますと、ある日私が医師であると知って、師匠がチベット版のネッター医学図譜とでもいうべき「ギューシ」を英訳した本を見せてくれました。その中にデカデカとこの馬頭観音(ハヤグリーバ)のタンカの写真がのっていました。それを見たとたん、そのエネルギーに圧倒されてしまい、ぜひこれをということになったわけです。別な理由としてはこのような怒った顔の尊格のほうが初心者には描きやすいのではないか、静寂な顔の尊格を描くのは10年?早いのではと直感的に思ったからです。日本ではそのお姿から、馬や動物を守る意味を持たせたり、また馬がたくさんの草を食べるようにモーレツに煩悩を撃退するという働きがあるとされているようですが、チベットでは薬師如来とともに医学に関係が深く、医者が薬を調合する際に瞑想しながら馬頭観音とひとつになり、薬の力を高めるというようなことをするようです。ちなみに参考までに師匠がみせてくれたIan A. Baker著 「The Tibetan Art of Healing」から馬頭観音(ハヤグリーバHayagriva)について述べた部分を引用しておきます。

In the consecration of Tibetan medicines and rejuvenating elixirs, the physician visualizes himself as Hayagriva, empowering medicinal substances with the potency to heal and transform. Referred to as the `protector of the elixir`, Hayagriva represents the transmuted energy of aggression and wrath converted to all-accomplishing wisdom.

つづく

安藤五徹

 

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方便を究竟と為す その九

(この文章は医師会雑誌に院長が連載している原稿を、医師会事務局の許可を得て一部手直しして当ブログに掲載することにしたものです。医学に関係すること、しないこと、勝手気ままに、しかし”まじめに”書いています。今後古い原稿もアップする予定ですのでご期待ください。)

 

いや、壮絶だったらしい。何がというと、去る5月11日に初めて日本で開催された、『オズフェス』というまったく彼女たちにとってアウエイの、ロックフェステイバルに参加した「ももクロ(注:ももいろクローバーZというアイドルグループのこと)」を応援する「モノノフ(注:ももクロのフアンの)」の応援がだ。(注:なんでアイドルの話が、と思われるでしょうが、院長はこのアイドルグループがその笑顔と歌声で世界を幸せにするだけでなく、人々を健康にもすると信じているので、話の中によく出てきますが・・・)現地からの報告では、「モノノフ」の皆があんまり必死に大声を張り上げるものだから、まるで地鳴りのような声援に会場全体が包まれていたらしい。チケットの売れ行きがよくないため運営から急遽オファーを受けての参加だ ったらしいが、彼女たちの参加が決まるとチケットは即日完売、一方でロックフアンの中のアイドル嫌いからは、「アイドルが参加するようなイベントにあらずというわけで、ブーイングの嵐の中での参加だったのだ。

当日「ももクロ」が出演する時間帯はパソコンの前でネットを見ながら、時々刻々と現地から入る情報を固唾を飲んで見守っていたが、「ももクロ」は大方の予想を裏切り、メタルな格好やペインテイングなどの特別な小細工をするでもなく、普段のきらびやかなアイドルのまんまのスタイルで登場。リーダー百田夏菜子の「今、目の前にいる私たちがアイドルだ!」の雄叫びからスタート。堂々と自分たちのパフォーマンスを行ったというからびっくりだ。ライブに先駆けて発信された名物マネージャー川上氏の「アイドルなめんな」「合わせる気なんかさらさらない」とのtwitterでのコメントを皮切りに、「モノノフ」のハートに一気に火がついて、冒頭に述べたような仕儀と相成った。みるみる膨れ上がるネットのコメントを読みながら、現地ばかりでなく、自宅や職場(?)で応援する人たちも含めた「モノノフ」の皆さんの熱い心がこちらにも伝わってきて、感動のあまり思わず目頭が熱くなった。

坂口安吾の『イノチガケ』だったか、桶狭間の戦いまでの信長を描いた小説があったが、まさしく「尾張の大たわけ」ならぬ「ももクロ城のたわけ姫」と「モノノフ」家臣団が、「今川の大軍団」ならぬアンチの待ち受けるロックの大牙城に討入ったかの感があった。「ロックな生き方」が正確に何をいうかはわからないが、旧態然としたものを破壊し、新たなるものを創造する心がロック魂だというなら、今回の「ももクロ」の参加はちっともおかしいものではなかった。メンバー、スタッフはむろんのことながら、「モノノフ」のイノチガケが伝わってきたからだ。

過去からのあらゆる条件付け(思考や感情の堆積物)を排して丸ごとのイノチを生きんとすることは、禅者やスーフィーの生き様でもある。禅者がよく「喝!」と叫びながら数珠を握った拳を突き出すのをドラマや漫画(例えばジョージ秋山さんの『ほらふきドンドン』)でみかけるが、喝というのはもともと大声を出すということであるらしい。だから「喝!」ではなく「ぜーっと!」でもいいわけだ。前回「Zポーズ」を話題にしたが、「Z」には「A」に戻る、無限に循環する(つまりは無限)という意味と、常に初心に戻ることを忘れないという意味をこめているらしい。そういえばステイーブン・ジョブスが愛読した『初心禅心』という本があったが・・・。結局何が言いたいかというと、「ももクロ」のメンバーや「モノノフ」が大声で「ぜーっと!!」といって指差しあうのは、禅者が「喝!」と言いながらあなたの顔に向けて拳を突き出し、「ほら、そこにおまえさんの本来の面目(不生不死、無限のイノチ)があるじゃないか」と言ってるのと同じなのだ。だから、ああ!、また自分はイノチガケどころかイノチヌケた状態で、いつの間にか自動操縦状態で患者さんと向かい合っているなあと思ったら、「ももクロ」のDVDでも見て、思いっきり彼らの「ぜーっと!」を浴びるといいのである。(DVDのない人は自分で自分の顔を指差してやるのも一興かも?)

そういう訳で(?)、今回の一枚は(注:この連載では院長自作の芸術作品?の写真を必ず載せていますので・・・)女性原理のエネルギーに敬意を表して、自作のチベット・タンカ(注:チベットの仏画)から「ヴァジュラ・ヴァーラーヒー(金剛猪女)」を。毘盧遮那仏(注:例えれば奈良の大仏)の化身ともいわれ、頭に乗っけている猪(イノシシ)は大地の豊穣のエネルギーをイメージしたものとのこと。ツルテイム・アリオーネ氏の『智慧の女たち』によれば、密教修行者がこの尊格を観想すると、その内なるエネルギーが活性化され、内外の対立が融解して宇宙と一体化するが、この宇宙こそ至上の歓喜、大楽、智慧なのだそうだ。それにしても、人、虎、ゾウの生皮をまとい、生首のネックレスをして、手には曲刀、骸骨の器、三叉鉾を持って乱舞するその姿は、かなりのカブキモノといえそう。「ももクロ」も次回のロックフェスに参加の機会あればこれを参考にして乗り込んではどうか。メタルやパンクのお歴々も目を点にして驚くだろうこと請け合いだ。

気合いが入ったので人の迷惑顧みずにまだつづく

安藤五徹

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